サイン2 ~神さまがくれた、幸せの羅針盤~ (詳細)
龍&アニキ(著)
「宗教ではなく人として読んでください」「自分を好きになれる本」「オリジナルの書き下ろしは泣けます」
千の風になったあなたへ贈る手紙 (朝日文庫) (詳細)
「千の風」手紙プロジェクト(著), 新井 満(監修)
「天声人語」「涙がこみ上げるのに、満たされた気持ちになるのはどうしてでしょう?」
うらおもて人生録 (新潮文庫) (詳細)
色川 武大(著)
「出来るだけ若いうちに・・・」「どう生きていったらいいかよくわからない人」「フォームとスケール」「異色の人生論」「「座右の書」です。」
地図のない道 (新潮文庫) (詳細)
須賀 敦子(著)
「タイトルから魅力的」「ヴェネツィア心象風景」「秘められた深い悲しみ」「文章が心にしみます」
二十一世紀に生きる君たちへ (併載:洪庵のたいまつ) (詳細)
司馬 遼太郎 (しば りょうたろう)(著)
「偉人たちが語りかけてくるような一冊」「司馬先生の期待にこたえるために」「内容は素晴らしいが・・・」「卒業祝い&入学祝に贈りたい」「感動しました」
陰翳礼讃 (中公文庫) (詳細)
谷崎 潤一郎(著)
「家なんか建てちゃう人は一度読んでみては」「リビングに蛍光灯」「今こそ読まれるべき本」「デザイン関係者必読」「日本人として」
ヴェネツィアの宿 (文春文庫) (詳細)
須賀 敦子(著)
「味わい深いエッセーです。」「光と影に包まれた道を歩く。ゆっくりと歩く。」「文化エッセイ」「重い主題」「歩くことと 時の流れと」
神も仏もありませぬ (ちくま文庫) (詳細)
佐野 洋子(著)
「心安らかな「老い」」「フネのところで涙」「これぞ」
考えるヒント (文春文庫) (詳細)
小林 秀雄(著)
「批評家の心意気」「及ばない域」「ザックバランな小林が味わえる貴重な書」「なぜ、小林秀雄は乗り越えられないのか。」「質の高い教養」
春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫) (詳細)
岡 潔(著)
「毎年、春が来るたびに、覚悟して読み続けたい。」「不易の名作。数学と芸術における情緒の考察はすばらしい!」「情緒の数学者」「たまには心の森林浴みたいに、こうした本を読むのもいいかな」「透徹した心眼で書かれた随筆」
● 色川武大
● 中学生はこれを読め!第3回本屋のオヤジのおせっかい - 9/20
● 0808
● 数学者
● 直観力・決断力・行動力を高めるために【頭と身体の使い方 その4】
● 独断で選ぶ・女性が生きる上で必読の本(特に妊娠・出産・育児・美容)
● 眠れぬ夜のために
文学・評論>エッセー・随筆>日本のエッセー・随筆>近現代の作品
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・「宗教ではなく人として読んでください」
この本に書かれていることは、国や宗教を超え地球に産まれてきた人類すべてに送るメッセージだと思いました。そこらへんの哲学者や評論家が自分の意見を説いている本ではありません。自分と誰かを比べて「勝ち組」「負け組み」というランクをつける本ではありません。心に蓋をしている方、ストレス社会で戦っている方、心に深い傷を負っている方。ぜひ読んでみてください。
・「自分を好きになれる本」
人気ブログ「僕のアニキは神様とお話ができます」の2冊目の書籍化です。1冊目の『サイン』を読んでいなくても、まったく違和感なく読めると思いました。
30代の会社経営者である龍さんには、神様と会話ができる2つ上のアニキがいます。この神様は、アニキの体を借りて語るのですが、アニキは、瞑想も呼吸法もなしで、いつでも神様に「マイクを渡す」ことができるそうです。
1部は、龍さんと神様の対話です。「地球はどうやって生まれたのか」について、宇宙の誕生の場面にも立ち合っていた神様が、難しい話をかみくだきながら説明してくれています。また、植物には「生きていて、うれしい」という感情があり、その喜びを人間にも捧げたいと思っているという話は、何ともけなげで、植物が愛おしくなりました。
2部は、書き下ろし編で、ある男の子とその両親が家族の絆を取り戻すまでの実話に基づいた物語です。誰も悪くないのに、壊れていく家族の絆。男の子は自分を責め、小さな心を痛めます。アニキの神様は、男の子に両親の出会いの場面を見せてあげることにします…。読んでいるうちに、切なさと感動の涙で、文字が見えなくなるほどでした。
3部は、読者からの質問に神様が答えるコーナーです。「どうしたら人を愛し、感謝し、憎しみを消せますか?」「恋愛に自信がありません」などの悩みに対して、相談者の心に寄り添った温かい回答が続きます。神様は「私はあなたが大好きですよ。あなたも自分を好きになってください」と、繰り返し語りかけてくれるように感じました。回答を聞く龍さんの相づちも温かくて、このブログの人気の理由になっていると思います。
『サイン』と『サイン2』で迷っている人は、『サイン2』の方が活字が太くて読みやすいので、『2』から読んでみるのもいいかもしれません。
・「オリジナルの書き下ろしは泣けます」
今回も基本的にブログの内容が主体となってます。第1部は 龍、アニキ、神様との対話で 前世や地球創生、病気への対処法・・・・などなどが書かれています。植物の話などはブログを読んだ当初も思いましたが、反省しきりです・・・・・。
・「天声人語」
天声人語やテレビなどでも宣伝され、発売日を楽しみにしていましたが…今だに入手できません!きっと感動できる内容だと思うので、出版社は、宣伝するからにはそれなりの部数を発行していて欲しいですね。
・「涙がこみ上げるのに、満たされた気持ちになるのはどうしてでしょう?」
人それぞれ「人生」という舞台と、そこで演じることの長さに違いはあっても、生まれて死んでいく…ということに違いはありません。この本には、大切な人を失った方のいろいろな想いが書かれています。これから先、決してお会いすることのできない方々ですが、生きた証、その舞台が素晴らしかったことが伝わってきました。人間=命としての存在は無くなっても、誰かの心の中でその存在は生き続け、誰かの人生に力を与えてくださると想いました。また、お手紙をお寄せくださった方々も…今…どんなにか素敵な毎日をお過ごしなことでしょう。印税の一部が、千の風が吹きわたる森づくりに生かされるという企画も、一冊の本が生かされてステキです。
・「出来るだけ若いうちに・・・」
人生についての基本的な考え方を、解りやすく押し付けがましく無く書かれています。出来れば20才までに一度読み、5年毎位に読み返すと良いと思います。テンパっている時などは落ち着きますよ。
・「どう生きていったらいいかよくわからない人」
どう生きていったらいいかよくわからない人、自分に自信が持てない人、勝負ごとをやっている人、心を豊かにしたい人、阿佐田哲也を知っている人は是非是非読んでみてください。この本には心に留めておきたいメッセージがいくつも出てきます。
以下本文より抜粋
「けれども、わかる、てことは、言葉でわかったりすることじゃないんだからな。わかる、ってことは、どういうことかというと、反射的にそのように身体が動くってことなんだな。」
「うんと小さいときに人を好きになって、そういう無償の行為に近いものをいったん肌で覚えておくのは無駄なことじゃないね。」
「しかし、よく見るとそれがやはり努力なんだな。非常に素直になる努力。」
・「フォームとスケール」
ギャンブラー阿佐田哲也の別名を持つ作家の人生論。
この本で特に目をひかれる点は、「9勝6敗のフォーム」だと思う。著者は「プロとして長期的に食べていくための持続のコツ」と言っているが、生きていく中での好不調の波についての原則のようにも取れる。
だけど、もう一つ大切なのは、「スケール(大事なときにチャランポランになれる能力)、(自然に他人を愛していけるような土台)」ではないだろうか。こちらの方に目を向けないと、著者自身も戒めているように「フォーム」も単なるわがままな損得勘定になりかねないだろう。
・「異色の人生論」
著者が自分の人生を振り返りながら、若者に向けて書いた人生論。運の良し悪し、運の使い方など、独特の視点から人生を語っているところが面白い。運の良し悪しと言っても、占いとか風水とかいったような非科学的なことを書いているわけでは決してなく、「なるほど」と思わされてしまう。この本を読んで、小説家というのは、さすがに人間観察のプロだと思った。
・「「座右の書」です。」
私にとっては「座右の銘」ならぬ「座右の書」といったところ。
若者に対しての人生アドバイス、といった体裁の本だが、私のような50歳前の中年男にとっても、非常の含蓄のある有意義なアドバイスである。
この色川武大や伊集院静のような人たちが持つ、ある種の「凄み」のようなものは、やはりほかの作者からはあまり感じることのできない貴重なものだと思います。
・「タイトルから魅力的」
イタリアに住んでいた著者が、普通の観光客や、もしかしてイタリア人でも気がつくことのない地名や道の名前の由来を調べている本です。
読んだ後に改めてタイトルを見てみると「地図にない道」ではなかったかと思ったが「地図のない道」であった。
改めて自分の読みの浅さと須賀さんが本当に書きたかったことがご自身の半生も含んでいたのだと気がついたのでした。
それにしても文章が美しいです。
・「ヴェネツィア心象風景」
「地図のない道」その一からその三、そして「ザッテレの河岸で」と、水の都ヴェネツィアをめぐる四つの文章が収められている。
たとえば、夫の死や家族の病気を経験した著者が、「道を歩いていても景色が目に入らず、意志だけに支えられて、からだを固くして日々を送っていた」時期におとずれたトルチェッロ島。 ヴェネツィアやリド島のかわいた盛夏を通りぬけてたどり着いた古い教会で、著者は聖母子のモザイク画に出会う。 神秘的な静謐にみちているだけでなく、(わたしの読み落としでなければ)ほかの作品ではあまり書かれることのない、著者自身の信仰をかいま見ることのできる美しい文章だ。
「ザッテレの河岸で」は、コルティジャーネとよばれた高級娼婦たちをめぐる、やや長めの随想。 小説的な文体で、テーマの核心にむけ著者が一歩ずつ近づいてゆくさまが描かれる。
「Rio degli incurabili(なおる見込みのない人たちの水路)」というふしぎな文字に著者が目をとめるところから、随想は書き起こされる。 その場所にはむかし、なおる見込みのない病気、つまり梅毒にかかった娼婦たちを収容するための病院があったのだ。 紆余曲折を経て、著者はその病院が形を変え、今もヴェネツィアに存在することを知る。 それらしき建物を探し当て、高い塀の周りを歩き回るが、入口がどうしても見つからない。 とうとうあきらめた著者はザッテレの河岸に出て、ある風景を目にする―
*
運河と細い路地が入り組んだせせこましい町並みを抜け、河岸に出たときの、ふいに視界がひらけ、同時に心が世界にむけて広がっていく感じ。 そのすがすがしさを、著者は完璧な文体で読む者に伝えてくれる。 これから先、わたしはこのラストシーンを思い出すたびに、できることなら須賀敦子さんの書く小説、あるいは宗教観により深くふれることのできる文章を読みたかった、と身勝手な願いに胸を焦がすことをとめられないだろう。
・「秘められた深い悲しみ」
ユダヤ人ゲット、トルチェッロのモザイクの聖母像、<治療の見込みのない病人>、コルティジャーネ(高級娼婦)、レデントーレ…。 在りし日の友人たちの思い出に導かれながら須賀敦子が描き出したヴェネツィアは、一般的なガイドブックが伝えるヴェネツィアとは、だいぶ趣を異にする。彼女のヴェネツィアを一言でいえば「深い悲しみと慰めの場所」。じつは、彼女が人生の一番辛い一時期をどうすることもできずに無為に過ごした場所が、ヴェネツィアであった。ここに表象されたヴェネツィアは、彼女自身の心象風景でもある。
・「文章が心にしみます」
今年になって須賀敦子さんの本を続けて読み始めたのだが、文章が本当にこちらの心にしみてくる。かなりひらがなの多い文章だが、心のままを誠実に書いているのがこちらに伝わってくる。
最近はイタリアというとパスタやグッチなどのブランドもばかりに関心が行きがちだが、須賀さんはイタリアの中でもいわゆる負け組(私はこの言葉大嫌いなのだが)の人たち、貧しい人やユダヤ人などに目を向ける。特にこの本ではローマやヴェネチアのユダヤ人と娼婦について語っている。そこらのイタリア本とは一線を画す、すばらしい本です。
・「偉人たちが語りかけてくるような一冊」
司馬遼太郎さんが、文字通り21世紀を担う子どもたちへの希望を書き記した本です。本の端々には、自らが歴史と向き合い、感じた人間としてのあるべき姿とその精神をとうとうと語っています。それは、あたかも司馬遼太郎という作家を通じて、司馬遼太郎さんの執筆した過去の偉人たちが子どもたちに語っているかの如く感じます。
また、「洪庵のたいまつ」も緒方洪庵が、その半生でたいまつが燃え移るが如く、弟子たちにそして後世に伝えていった意志と実績を語っています。情報が遮断されていた鎖国という状況のなかで、針の穴からの光に例えられた出島で学んだ洪庵の姿は、現在グローバルの波の中で情報鎖国になっている子どもたちにとっては、これから目指すべく方向を照らすたいまつとなるのではないでしょうか?
司馬遼太郎さんは、今さら言うに及ばず、多くの大作を残してきた大作家でありますが、本書が納めている2作品は国語の教科書の文章として執筆されただけに、ページ数としては多くはありません。しかしながら、司馬遼太郎さんの司馬史観に基づいた作品だけに選ばれた一言一言の言葉には重みがあります。
うちの娘も読んで何かを感じた様子でした。
これは、歴史に残る国語の教材だと思います。
・「司馬先生の期待にこたえるために」
他の方々が書いているように、短い文章ながら力強いメッセージがこめられていて老若男女問わず読み手に強い感動を誘う内容。流石、司馬遼太郎ということか。学生に限らず、人生の節目にある人に対する贈り物にも最適だろう。
21世紀になっても世界は司馬遼太郎の懸念を十分に解決できていない。私は本書の執筆当時の対象年齢層だった。そういう意味でも司馬遼太郎の思いを託されたと思い、折に触れて読み返していきたい。
・「内容は素晴らしいが・・・」
内容は文句無く素晴らしい。老若男女問わず読むべき文章であると思う。ただ・・・印刷がどうも・・・。表紙を見ても伺えるが、蛍光色のようなどぎつい色で、ページを開くたびに不自然な色の自然の写真が目にぶつかってくる。心洗われるような美しい写真とともにこの文章が読めたらどんなにか永久保存にしたい本になっただろうと思うと、実に残念でならない。そのため人に贈る本としては対訳版のほうを選んでいる。
・「卒業祝い&入学祝に贈りたい」
絵本のような大きな文字と、すべての漢字に『ふり仮名』がふってある50ページにみたない薄い本。しかし、内容はかなり濃厚。少ない文字数と簡単な言葉で、核心を突いた深いことをスバッと言ってのける。
・「感動しました」
私は中ニです。この本は本屋でみつけて、買ってみましたが読んでみてすごく感動しました。この本を私の担任の先生に奨めてみたところ、また感動したらしく道徳の授業でこの本を紹介し、朗読しました。
でも感動だけではなく、大いに考えさせられました。私達が今いる二十一世紀は司馬さんが見たかった二十一世紀なのかと。すばらしい世の中なのか?と。
だからこそ、若い担い手である私達が今の現状を見据え、これからの未来を変えていかなくてはならないのだと深く思いました。
もっとたくさんの人に読んでもらいたいです。
・「家なんか建てちゃう人は一度読んでみては」
大谷崎が書いた日本文化論。日本人は陰翳とともに過ごし、その中で一番美しいものを作り出した、という文化論です。陰翳礼讃は今でも我々の実感として理解できる論です。なぜかしら古い話ではありますけれども、自然に谷崎の論は理解できるし納得もできる。それは本論が日本文化論のある中心を射抜いていることの証明だし、そして僕達が日本に住んで、日本でそだった証明なのであろう。それだけ普遍的な論なのであります。是非、自分の家を建てようと考えている人は一読してみるのがいいでしょう。きっとその間取りや設計に影響があるはずです。その他の論文も谷崎らしくてよろし。
以前読書雑誌に本木雅弘さんが本書を推薦していたのを思い出しました。「おくりびと」につながる道をちょっと理解した気持ちになりました。
・「リビングに蛍光灯」
〜何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造する「日本人」、はいつから変わってしまったのだろうか。いつから部屋を煌々と照らし出す癖が身についのだろう。しばらく本書を読み進めると〜欧州の都市に比べると東京や大阪の夜は格段に明るい〜と記されているが、陰翳を尊ぶ「日本人」が何故現在(昭和8年)変わってしまったかの考察は全くない。ただ昔の作者の記憶の中にある暗闇を懐かしがっているだけである。 昨今やっと日本も間接照明という輸入観念で陰翳が復活?したようだが、ちょっと前まではリビングを青白い蛍光灯で煌々と照らすという暴挙がまかり通っていた。欧米の居室の陰翳、光の使い方こそ谷崎が求めていたものではなかろうか?〜暗がりの中に美を求める傾向が、東洋人にのみ強いのは何故であろうか〜と書いているが本当に日本人、東洋人だけが暗闇を尊んでいたのだろうか。そんなに尊んでいたのならそんなにあっさりとその美を捨て去ることができるだろうか。蝋燭の灯りだけで撮った映画「バリー・リンドン」を谷崎は勿論知らない。
・「今こそ読まれるべき本」
日本の夜は明るすぎる、と谷崎潤一郎が『陰翳礼賛』で嘆いたのは昭和8年のことだ。現代と比べたらさぞ暗かったろうと思われる時代である。 谷崎は単に明るすぎるのを嫌ったわけではない。ロウソクなどの柔らかな灯と、それがつくる陰が日本の文化であり、その文化が消えていく(あるいは変質する)のを憂えたのだ。 もっと言うならば、谷崎は灯火を暗喩に用いて、西洋文明を無条件に導入してきた日本人のあり方を疑問視しているのである。 「谷崎は実際には明るい家をつくった」などと的外れなことを述べて得意がっている輩がいるが、自分の知性の低さを公表しているようなものだ。
・「デザイン関係者必読」
谷崎潤一郎による戦前の名エッセイ。日本人の根底にある美意識を、当時急速に日本に浸透しつつあった西洋文化と比較することで見事にあぶりだしています。
デザイン関連の何冊かの本で、陰翳礼讃のことが絶賛されていたので読みました。最近読んだ本では「デザインの深読み(坂井直樹)」と「商いデザイン(永井資久)」、これら以外にも昔読んだデザイン関連本の中にも陰翳礼讃のことが書かれていた記憶があります。
「デザインの深読み(坂井直樹)」によれば、陰翳礼讃は今や世界のプロダクトデザイナーの愛読書になっているのに、日本のデザイナーでこの本を読んでいるのは年配者ばかりで将来がやや不安だ、とのこと。全く同感です。
70年以上も前に書かれたこの本がいまだに読まれ続けている、しかも世界中で。この一点を持ってして、この本の秀逸さがわかっていただけると思います。しかも読んでいて単純に面白く、とても読みやすいというのも素晴らしい。それも、長く読まれ続けている理由の一つだとと思います。
日本の文化・美意識の素晴らしさを改めて教えてくれたこの本に、感謝です。
・「日本人として」
高校の頃、国語の教科書に掲載されており、それを見てすぐに書店に走った覚えがあります。が、あろうことか無くしてしまった為、再度購入。この作品はもう何回も拝読していますが、その度に日本の美の奥深さを感じます。日本人ならば一度は読む価値のある一冊だと思っています。
・「味わい深いエッセーです。」
著者の作品に触れるのは本書が始めてです。日本国内でのことだったり、海外でのことであったり…切なさとユーモア感が満載で夢中に読みました。修道院での生活も味のある修道女さんとの日々が繰り広げられていて自分には新鮮でした。外国語にも堪能な著者の姿にも憧れます。著者の夫を大切に思う気持にも見逃せないものを感じました。
・「光と影に包まれた道を歩く。ゆっくりと歩く。」
寄宿舎生活を送ったカトリック学校時代のこと。フランスのパリに留学した時のこと。日本に戻ってしばらく働いた後、今度はイタリアのローマに留学した時のこと。イタリアの男性と結婚し、ミラノで暮らしていた時のこと。日本に帰った後、久しぶりにイタリアを訪れた時のこと。著者・須賀敦子(すが あつこ)が歩いてきた道のそうした折々、なつかしい店の中を覗くように差し挟まれる父と母の思い出。文章にきらめく光と影が美しく、ふっくらとした豊かさに満ちていて、著者が紡ぐ筆致に乗って、誘いこまれるように本の中を歩いて行きました。
著者が案内して見せてくれる記憶の風景に、親しさとあたたかさとを感じながら頁をめくるうち、時折、はっと胸を衝かれる文章が目に飛び込んでくるのも印象的。 <「ヨーロッパにいることで、きっとあなたのなかの日本は育ちつづけると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」> p.103 <そのころ読んだ、サン=テグジュペリの文章が私を揺りうごかした。「自分がカテドラルを建てる人間にならなければ、意味がない。できあがったカテドラルのなかに、ぬくぬくと自分の席を得ようとする人間になってはだめだ」> p.146 ※この言葉の出自については、巻末の「解説」のなかで触れられています。 <しかし、なによりも、自分だけの人生をもとめて故国をはなれ、一歩一歩手さぐりしながら歩いている彼女に、私は深い共感をおぼえた。> p.210 <「ミラノなんて、おまえは、遠いところにばかり、ひとりで行ってしまう」> p.248
「ヴェネツィアの宿」「夏のおわり」「寄宿学校」「カラが咲く庭」「夜半のうた声」「大聖堂まで」「レーニ街の家」「白い方丈」「カティアが歩いた道」「旅のむこう」「アスフォデロの野をわたって」「オリエント・エクスプレス」の十二のエッセイに吹き通う清やかな風の香り、凛としてしなやかな精神の深み。素敵だなあ。
フェニーチェ劇場の広場に面したホテルに泊まった一夜、走馬燈が流れるように古い記憶がめぐる「ヴェネツィアの宿」、夢幻のような前半の数頁の美しさ。次の学生寮に移るまでの時間を、ひとり、ローマ終着駅でつぶす“私”の心細さにしんみりさせられた「カラが咲く庭」の一場面。京都の竹野夫人という人から届いた手紙が、異様な体験へと著者を巻き込む「白い方丈」の恐さ。特急列車“フライイング・スコッツマン”に乗って、スコットランドのエディンバラへの旅と、国際列車“オリエント・エクスプレス”にまつわる父の思い出が交錯する「オリエント・エクスプレス」。そして、本書の最後に置かれたその文章がぐるりとひとまわりして、最初の収録エッセイ「ヴェネツィアの宿」へと帰っていくところ。とりわけ忘れがたく、印象に残った文章と名場面です。
ロンバルディア、カラブリア、プリアといったイタリアの地方名はじめ、ヨーロッパの都市の名前が結構出てきます。私は、アトラスの世界地図帳を引きながら、本書を読んでいきました。おかげで、イタリアの地理に少しだけ明るくなったかもしれない。そういえばイタリアの国って、人間の脚みたいな、靴みたいな形をしていますね。本書の中で実によく歩く人という印象を持った著者と、何か響き合うものがあるなあと、ふっと今、そんな気がしたのですが。
本書の巻末、「彼女の、意志的なあの靴音」と題する関川夏央の文章もいいですねぇ。<友情をもとめながらも孤独を恐れない><温厚な表情の裏側にひそむ強いなにものか>を持った須賀敦子の人となりを伝えてくれる文章の、格調高く、きりりとしていること。この見事な解説文にも、ため息が出ました。
・「文化エッセイ」
イタリアと日本の文化比較。昭和の女性文化。ヨーロッパ各国の文化比較。
なにげない日常を描いたエッセイですが、上質の文化論に感じます。
須賀さんの文書の持つ雰囲気がとても良いです。
・「重い主題」
なんとなく読み流していると気づかないのだけれど、叙述されている内容はとても重い。エッセイのようでもあり、小説のようでもある。少女時代の寄宿舎の謹厳なエピソード、家庭内の問題児の父親、社会的には恵まれた成功者だがよくいる懲りない女好き。潔癖で真面目な著者は、愛情と同時にかすかな侮蔑や嫌悪感を漂わせながらも、それをも含んで父親を愛した、愛せたのは、カトリックという宗教の魔力だったのかもしれない。そんな彼女がはるばると旅する地が、西欧、それもフランスやイタリアであったのは必然でもあったろう。が、彼女がその地で出合い、戸惑い、葛藤し、受容しようとしたのは、西欧、特にローマカトリック的な緻密な論理の世界であった。それはゴシック建築の如き頑強で融通の利かない、隙間なく積み重ねられたごつごつとした石組みであり、聖堂の内陣では宇宙と自己とを対峙させ、一歩も道を譲ろうとしない苛烈な知的構築物であったことが、文章の端々からくみ取れる。その西欧との対峙を通して、彼女が出会うのは、女性が如何に社会の中で自立して生きていくかという人生を通しての問いであった。
ただ、あまりに真面目というか、遊びの少ない文章に息苦しさを感じたのは、懲りない不真面目なおっさんである不肖わたくしのせい故であるが。
今、社会の中でポツンと苦境に立ち尽くす女性に読んで欲しい。
・「歩くことと 時の流れと」
「歩く」ということが印象に残った短篇集。ヴェネツィア、イタリア、神戸。そしてシャルトル巡礼。
最後に収められた二つの作品が、とりわけ素晴らしい。『アスフォデロの野をわたって』と『オリエント・エクスプレス』。静謐と哀しみ。誰にも止めることができない、時というものの流れ。
全篇を通じての優美な文章は、まさに珠玉。
・「心安らかな「老い」」
群馬の山の中での64歳の一人暮らし。 でも、そこには淋しさとか、変な意固地さとか言う様なものは一切ありません。 余所者である自分を高みから見つめ、自らの「老い」をその先にある「死」を見つめながら、それでいて自然の中に融合している様な、何か達観した「生」が、そこにあります。
外から見れば、可愛げのない初老の女性。 でも、彼女の周りには、何故かいろんな人が集まってきます。 人を惹きつける何かを持った著者が、周りの人たちと、それはあたかも群馬の大自然の様に、「普通の」関係を作っています。 時に、幼馴染の男性の訃報に涙し、可愛がっていた猫の死病に自らの死を重ねながら、肩ひじ張らずに生きています。
「世の中をはたから見るだけって、何と幸せで心安らかであることか。老年とは神が与え給う平安なのだ。あらゆる意味で現役でないなあと思うのは、淋しいだけではない。ふくふくと嬉しい事でもあるのだ。」
こんな「老い」を私も迎えたいと思います。
・「フネのところで涙」
すべて自分を達観されている、というか、俯瞰しているような感じすらするエッセイです。
とても滋養があって、豊穣な大地のような本でした。全部がいいのですが、特によかったのは愛猫フネががんにかかり余命いくばくもないところ・・・。
愛猫の死と自らの死を重ね合わせ「私もこのように死にたい、死ねるだろうか」と・・・。フネのけなげさ、著者の飾らなさ、いろいろな清らかな感情に読みながら電車の中で泣けました。
「シズコさん」の中で、著者が乳がんを患い、それが骨まで転移した、というような記述があり、うろ覚えですが、積極的な治療はしないのだ、と書いてあったような気がします。
現在、佐野さんがお元気なのかどうか分かりませんが、その病気に対する態度は愛猫フネから来ているのかな、と思いました。
潔くて、すがすがしくて、自分を俯瞰、達観していて、読後感がとてもいい本です。文庫で出て本当にうれしいです。
・「これぞ」
名エッセイです。ここまで自分自身の感情に、エゴに、踏み込んだ内容を、表現できることは、素晴らしいと思います。だからこそ、心に響くエッセイになるのでしょう。
・「批評家の心意気」
何故、本書を選んだかというと、「批評」の考え方に触れたかったから。
批評家だけあって、文中の言い回しは、そのまま使えるほど。
ある男のコトを、"つまらないヤツ"と言うのに、随分と煮詰めた言い回しをする。
小林秀雄さんが極端に大きく考えたコトについて、極端に小さく分解して返す、中谷宇吉郎さん(物理学者、随筆家)の返答は、ある種の思考法として、アイデアが詰まった時、突破口になるかもしれない。
「意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変わらない」という著者
ブログをやっていたり、批評や評価文に興味がある人は、「批評」の項目だけ読んでもイイ
それ以外にも、批評に触れている部分は下記
P.36 「嫌いという感情は不毛である。 侮蔑の行く道は袋小路だ。」
P.48 「批評家は直ぐ医者になりたがるが、 批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。」
批評家の条件 * 批評的気質 * 経験
以上をベースとして、「他人への讃辞」
P.200 「批評とは人をほめる特殊の技術だ」
という名言に繋がる。
興味があれば、続編もどうぞ * 「考えるヒント〈2〉 (文春文庫)」 * 「考えるヒント 3 (文春文庫 107-3)」 * 「考えるヒント 4 (文春文庫 107-5)」
・「及ばない域」
飾らない文章で、軽快に思考が展開されている。しかし、どうしてこうも深く考えられるのだろう。
提起された問題も、彼の思考にかかれば重要な問題に思えてくる。
今の自分にはどうしても及ばない思考の域を感じることができた。
・「ザックバランな小林が味わえる貴重な書」
普段は難解な評論を書く著者が、一般読者向けに"モノの考え方"を気儘に綴ったエッセイ。「メールツェルの将棋指し」と人工知能の関係から語り始める辺り、本書の性格を表している。本作品は好評だったようで、その後シリーズ化された。
一貫して述べられるのは、社会の巨獣性、社会の通念・イデオロギーを疑う"常識"の大切さ。文学に対する率直な思惟。時代は変れど、変らぬ人の心。機械・効率よりも心性が大事。論理を弄んでいるように見える著者が、実は現実を重視している事が窺える。「**」主義と言う固定観念を唾棄している事も分かる。「平家物語」、「ヒットラー」を語る辺りでは、いつもの思想論・文学論の香りがするが、概ね平易な表現を心がけているようだ。「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」等の逆説的言辞も味わえる。「福沢諭吉」の章は、詳細な論考で福沢の明察振りを浮き彫りにして秀逸。後半1/4程度は、主に自然・伝統を題材にしたエッセイになっており、これもまた一興である。特に「青年と老年」が面白かった。最後に「ネヴァ河」と題して、ドストエフスキーについて語る。
これらが、ポー、ソクラテス、プラトン、サルトル、井伏鱒二、本居宣長等を自在に引用して語られる。小林氏は読者の理解を深めるため、大事な箇所はワザと分かりずらく書いたと言われるが、個人的には本書のような素直な物言いが好きである。しかし、「のらくろ」の田河水泡氏が著者の義弟とは驚き。文士劇への言及等気取らない著者の姿が垣間見られ、小林秀雄の入門書として格好の本ではないかと思った。
・「なぜ、小林秀雄は乗り越えられないのか。」
小林秀雄の批評スタイルは、ある作品を前にしてその形式や歴史的意味ではなく、その作者の美意識や人間そのものを語ろうとするものである。勿論、会ったこともない故人達(=ソクラテスやドフトエフスキー、福沢諭吉にヒットラーまで!)の心理なんて客観的に判別することは不可能であり、「私はこう見た」という自分の思い込みと鑑識眼を特権化したスタイルであるともいえる。実際、「こう見た」という単純な結論をグルグル迂回しながら書くので、美文ばかりが読む者の頭を流れて、内容はあまり記憶に残らない。しかしこれは、何度でも読んで楽しめるという思わぬ効用を読む者に与える、ということだ。
下手な人間がやると嫌味にしかならないこのスタイルは、多くの模倣者を生んだが、後継者は生まなかった。それは、小林の批評家としての眼が卓越していたからである。宣長を論じながら殆どソシュールみたいなことを書いている「言葉」、フロイディズム批判と(武田泰淳的)司馬遷観が力技で錯綜する「歴史」、現在流行しているアニメ論と較べても卓越したディズニー分析である「漫画」、など本書所収のエッセイには読み応えのある内容のものが多い。
「世間は新事件と新理論を捜していて、青年なぞ必要としていないのではなかろうか」
(=ヨット好きが高じて太平洋単独横断を敢行した堀江謙一に対し、何千回も「なぜ、こんな冒険を行ったのか」と繰り返し聞く世間を評して。「青年と老年」より)
こんな名フレーズが満載のこれらのエッセイは、40年経っても全く古くなっていない。なぜなら、小林が書こうとしていたのは、人間が普遍的に持っている、何百年経ってもそう簡単に変わらない性質のものばかりだからだ。そして、彼が名人芸で書き出す普遍性というものは実際に結構的を得てしまっているだけに、単に新たな批評スタイルによって表層的に乗り越えられるものではない。そんな試みは文芸批評という死に絶えて久しいジャンルで細々と行われ続けられるだろうが、もはや陽の目を見ることは決してないだろう。なぜか。小林秀雄の文明批評が既に古典に成りかけているからである。そして、古典というのは常に新しい。
・「質の高い教養」
日本屈指の批評家、小林秀雄。
国語の試験などで取り上げられることも多いので、そちらでご存知の方も多いのではないかと思います。
他のレビュアーも指摘していますが、「世の中の出来事に興味を持ち、深く考察をしていく」事に興味がある方向けです。
エッセイ風の書き出しから、核心に迫る筆はさすがです。
質の高い教養を得ることができる 名著です。
・「毎年、春が来るたびに、覚悟して読み続けたい。」
まず、何といってもお名前がいい。簡潔で虚飾なく、孤高で端正で毅然としている。
そして「春宵」と「十話」という組み合わせ。いかにも昭和の時代の気分で、未知の読者にはそっけないかも知れないが、開けば、まず読み切ってしまうことうけあい。「日本語は物を詳細に述べようとすると不便だが、簡潔にいい切ろうとすると、世界でこれほどいいことばはない。簡潔ということは、水の流れるような勢いを持っているということだ」――まさしく、岡自身の文章について述べたよう。
光の本質の分析を文学に応用して、「波動型」か「粒子型」かと論ずるところなど、寺田寅彦を彷彿とさせる(だが岡の好みは寅彦より漱石より、断然芥川というのも面白い)。また、現代においても“理系のエライ先生なのに古典や芸術の素養がある”という人は少なくないが、岡のばあい、古典や芸術は、「素養」ではなく、「覚悟」。つまり、身を飾るための手段ではなく、生き方そのもの、ということがビンビン伝わる。そこが、この本のすごさ。
だからこそ、自分の専門である数学についても矜持をもって、かく言う――。「語学と一致している面だけなら数学など必要ではない。それから先が問題なのだ。人間性の本質に根ざしておればこそ、六千年も滅びないできたのだと知ってほしい」さらに、我々を震撼させるのは、次のような言葉――。「数学と物理は似ていると思っている人があるが、とんでもない話だ。職業にたとえれば数学に最も近いのは百姓だといえる。種をまいて育てるのが仕事で、そのオリジナリティーは『ないもの』から『あるもの』を作ることにある。……これにくらべて理論物理学者はむしろ指物師に似ている。人の作った材料を組み立てるのが仕事で、そのオリジナリティーは加工にある。……わずか三十年たらずで一九四五年には原爆を完成して広島に落とした。こんな手荒な仕事は指物師だからできたことで、とても百姓にできることではない。」
噛みしめ続けたい言葉が、ふんだんに詰まっているが、一つだけ挙げれば――、「私は数学専攻に踏み切るのには臆病だったが、外国の文化を恐ろしいと思ったことはなかった。この点、一般の日本人は逆で、数学というものには恐れを知らなさすぎるくせに、外国文化を恐れすぎる」
絶対に切らして欲しくない本のひとつ。
・「不易の名作。数学と芸術における情緒の考察はすばらしい!」
アンリ・ポアンカレの「数学の本体は調和の精神である」という思考をふまえて、数学の目標は真の中の調和であり、芸術の目標は美の中における調和である、と。こうした岡潔の「どちらも調和という形で認められ、そこに働いているのが情緒である」とする考察はじめ、新しい視点と数学の本質にせまる考え方が随所にもりこまれた、近代日本の誇り得る名著といってもいい書です。
・「情緒の数学者」
日本が世界に誇る大数学者岡潔。
・「たまには心の森林浴みたいに、こうした本を読むのもいいかな」
数学のことはまったくわかりませんが、岡潔さんの清々しい生活ぶり、人柄についてはいろんな本で読んできました。
ここで簡単に清々しいと書くと、岡潔さんの抱えていたであろう病みたいなものを軽く考えすぎているのかもしれないし、研究のための貧乏がどれほど厳しい生活であったことにも無頓着すぎるのかもしれませんが、こうした人が実際に世捨て人のように生きていて、そこに毎日新聞の記者が訪ねて、聞き語りを残したということ自体が、見事な結晶をつくっているように感じます。
・「透徹した心眼で書かれた随筆」
高校の現代国語だったか、通信添削のZ会の国語だったかに出ていた大数学者 岡潔先生が書かれた有名な文章;「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。」・・・これが読みたくて岡先生の「春宵十話」を買ったが、当時の私の人生経験ではこの本の深いところを理解できるだけの力がなかったと思う。その時には読めていたつもりだったのだろうけど。
この本が復刻されたことを知り、早速買い求めた。28年前に読んだ文章を覚えているはずはなく、ただ上記のスミレの件は読んですぐ思い出した。
今回、私も45才になって、確かに28年前と比べると読めるようになったが、それでもこの本というか、岡先生の心眼はあまりに透徹しているため、十分に読みとれた自信がない。この本を十二分に読み尽くすには10年早いのだろう。
岡先生は情緒を育てることの大切さを繰り返しおっしゃっている。そしてこの本自体が情緒溢れている。そもそも題名からしていい。春の宵のなんともいえぬすがすがしさを感じさせる題名。
一つのことに突出して秀でた人は人間の大きさが違うと思った。
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