「狡い。」「胸がいっぱい」「真実は凡て井戸の闇」「数えずの思惑と人間模様」「好きです」
オーパ (集英社文庫 122-A) (詳細)
開高 健(著), 高橋 昇(写真)
「漂う虚無感と漲る活力」「すばらしい!」「旅好き、釣り好きな人にとってはハズれのない一冊」「疲れた時に読む一冊」「開高健といえば!」
新装 ぼくを探しに (詳細)
シェル・シルヴァスタイン(著), Shel Silverstein(原著), 倉橋 由美子(翻訳)
「ぼくをさがしに」「竜安寺の石庭にも似て」「大学時代に・・・・」「それは「ぼく」なの?」「孤独感の肯定」
新レインボー小学国語辞典 (詳細)
金田一 春彦, 金田一 秀穂
「小学2年生に 与えるため」「最近の辞書は楽しいですね」「とにかく語彙数!」「内容が充実しており満足しています」「小さい子供でも読める辞典」
前巷説百物語 (角川文庫) (詳細)
京極 夏彦(著)
「又よ」「マンネリ。」「読めば読むほどに」「ここから始まる『巷説』。」
こころの処方箋 (新潮文庫) (詳細)
河合 隼雄(著)
「わかるわかる」「心の「こり」をほぐしてくれる言葉」「常識を非常識からまもる重要性」「最悪の本。」「適切な入門書となりました。」
悪魔のささやき (集英社新書) (詳細)
加賀 乙彦(著)
「攻撃性」「犯罪者になる瞬間」「世の中は悪魔のささやきで満ちている」「魔がさすとは?」「うお!」
氷川清話 (講談社学術文庫) (詳細)
勝 海舟(著), 江藤 淳(編集), 松浦 玲(編集)
「言葉のまま、自分で感じてほしい」「解説が・・・」「粋でイナセな江戸っ子の放言譚」「幕末を30年生きた男の肉声を聞いているような文体。」「べらんめえ 勝海舟でスッキリ」
雪国 (新潮文庫 (か-1-1)) (詳細)
川端 康成(著)
「昭和初期の詩的表現の賞味期限が切れた後」「島村が関与しない駒子の悲しみ」「美的」「雪国は」「「美」の瞬間を言葉で掴まえた物語。」
昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫) (詳細)
河合 隼雄(著)
「現代の神話「1Q84」」「人生を変える良書」「後半の物語を読んでから」「運命の出会い」「ユング心理学による昔話の解釈」
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・「狡い。」
京極夏彦さんの本を読んだと実感させてもらっています。さあ楽しもうか、といった具合に一日一段落と決めて牛の反芻みたいにもたもたと。大勢のひとに読んでもらうことを考えてなのか、やはり肝心の部分を覆う被膜が拡大する箇所が著われるにあたり、そして読み終えたいま、果たして新訳と考えてよいのか心が揺れてしまいます。ほかの作品やほかの会社の小冊子で辻褄の詳解なんて蛇足は生えませんように。この本すっきり好きとはいえません。
・「胸がいっぱい」
もうこれは、大好きです。またいい本に出会ってしまった・・・と読み終わったあと胸がいっぱいになりました。切なくて、ラストが泣けます。それぞれの登場人物の視点で書かれているため、それぞれの気持ちが胸に染みてくるようで、ジーンと来ます。京極堂シリーズのようにちょっと飽きてしまうような途中の語りもなく(京極堂シリーズも大好きですが・・・)、かといってそこは京極作品、物足りなさはまったく感じさせず、読みやすく読めました。感想は人それぞれとは思いますが、私はこういう「薄っぺらくない人間模様の感動もの」が好きです。なんといっても、文章がうまい作家さんの本は呼んでいて気持ちがよいですね。本全体に漂う空気はけして明るいものではなく、「マッタリとしたどんより感」が流れていると思いますが、それすらも私的には心地よいです。ボリュームはありますが読んでいてしんどくないので、ぜひ読んでみてほしいです。大満足の一冊でした。
・「真実は凡て井戸の闇」
これは私の住む地方の新聞の夕刊で連載されていた作品でした。その新聞取っていてよかったと、生まれて初めて思わせて頂きました(笑)。 1年強の連載小説が毎日毎日楽しみで仕方なかったものです。
番町皿屋敷を下敷きに、「数えず」とはこれ如何に?と読み進めていましたが、全ては佳境から終章に漂う虚無感という仕掛けを際立たせる為…流石です、京極先生。 静かに淡々と、人間の狂気が描かれていくのも何とも空恐ろしい。
登場人物が皆、何を数え、何を数えなかったか…是非ご自分でお確かめくださいませ。
・「数えずの思惑と人間模様」
大作である。
本は厚いが、京極先生の職人仕事で読み難さはない。行間の使い方と間は、最高である。
個人的には、シリーズの中で二番目に好きです(笑う→数えず→覗き)。「笑う」の新解釈の衝撃が凄すぎたということでしょうか。しかーし、読みやすさは本作がNo1であーる。
読後感の空しさ(あえてこの字でしょう)は、何とも言えません。登場人物の思惑が交差する。誰1人悪人・怪人は居なかったと思いたい作品です。あ、「仙」が一番理解できる人物で一番怖かった〜。
書いて、気づいたが理解できる人物ほど、自己の内面の怖さを認識するということでしょうかね?
「又さん」もやっぱり出てきて、お久しぶりって感じですね。
もっと、個々人と繋がっていたかったなと思わせる良作ですよ!!
・「好きです」
流石は京極先生、あの持ってるだけでしんどい本を一気読みさせるとはやってくれます。
全編通して鬱々とした雰囲気が漂う良作です。
視点はころころとかわるので登場人物それぞれの心内を見ることができるのですが、皆様色々問題ある方々だなあと思いつつもどこかで共感してしまう。
人が普段決して表に出さない、けれど誰かしら抱えている心の闇が描かれておりました。
前二作よりも盛り上がりに欠け、主要人物は難解な性格で理解に苦しむ所もあるけれど、それでも面白いです。
ストーリーを楽しむより、作品に流れるどんよりとした空気を楽しむ方が良いかもしれません。
静かな所でひとり、ゆっくりと文章を噛み締めながら雰囲気にどっぷり浸って頂きたい。
(個人的には、お馴染みの彼等に再会出来たことがとても嬉しかった…笑)
相変わらずの分厚さに購入を躊躇されている方がいらっしゃいましたらば、迷わず購入することをお勧めします。
京極先生がお好きな方ならば、間違いなくお気に召されるかと思います。
(絶賛しておきながら★を減らしたのは分厚さのせいです笑。もう少し文字が小さくても良いので、頁数を減らして頂きたかった。内容は何の問題もありません)
・「漂う虚無感と漲る活力」
開高氏の書物は、10年前に30代前半で「はまった」。以来、小説も含めてかなりの量を読んできた。中でも、この「オーパ」は最高傑作の一つだと思う。氏の「輝ける闇」や「フィッシュ・オン」と並んで、私にとっては、再読・再々読・再再々読に耐える貴重な作品たちの中の一つだ。文章表現の濃度と密度は「輝ける闇」に、キレの点では短編をまとめた「フィッシュ・オン」に軍配が上がるように思う。が、この「オーパ」には(もちろん昨今の安直な流行作家とは比較にならないほど文章は素晴らしいが)不思議な力がある。素晴らしい写真と相俟って、新鮮な驚きの連続で頁をめくる度に読み手に活力が漲ってくる。が同時に、太陽ぎらつく南米の川と魚と人を描いていながら、全編に静かに漂っているのは何とも言えない虚無感だ。この虚無感がクセモノで、どういうわけか何回も引き付けられてしまう。その理由は分からない。「現代のアマゾンは、もっと自然破壊が進んでいるんだろうなあ。それも人間の業なのだなあ」ということを勝手に想像してしまうせいかもしれない。とにかく、また今宵も読むのだ。これは単なる作家先生の釣り紀行ではない(その後に出された続編群が次第にそうなっていくのは残念だ)。御本人が意識する・しないに関わらず、本作品は氏の内面までも絞り出した、「小説」でもあるように思う。その意味では、本作品は舞台をベトナムから南米のジャングルに移した、「輝ける闇」と言えるかもしれない。
・「すばらしい!」
以前読みましたが、文庫化を契機に再読しました。著者の文体にもグイグイ引き込まれ、氏の料理等の知識には感服します。
いつまでも読みたい一品です。
・「旅好き、釣り好きな人にとってはハズれのない一冊」
釣りが好きで本書を手にしましたが、期待どおりの内容で、無性に自分もブラジルまで釣りに行きたくなりました(^_^;)
表紙の写真も、最初はあまり好きになれなかったのですが、読み終わってみると確かにこの本の表紙として、この写真以上のものはないと感じさせられました。本文中の写真も本当に魅力的なものが多かったです。
旅好き、釣り好きな人は是非読んでみてください。
・「疲れた時に読む一冊」
印象的な写真でペラペラと眺めるだけでもアマゾンの雄大な自然を感じられる。凶暴な歯を持つ魚達は炭素鋼の針を曲げ、のばし、ねじ曲げ、噛み切り、ルアーを噛みちぎる。黄金に輝くドラド、大人の男と同じ大きさのピラルクー、ピラニアの歯形はまるでスプーンで削り取られたプリンのよう。
本を閉じ、ふと辺りを見回すと色褪せて見える。アマゾンの水を飲んで甘いと言ってみたくなる。
・「開高健といえば!」
開高健といえばこれっ!釣りっ!ていうくらい、彼の小説以外のキャラクターはこれである。ダンディズムとか、男っぷりとか、晩年の彼を語る識者の言葉はやたらと勇壮である。そのキャラは、このスポーツ・フィッシングの趣味に如実に現れている。高橋瞬の写真が、その彼の歯切れのいい文章を引き立てている。50歳代の若さで亡くなったのが、未だに信じられない!
・「ぼくをさがしに」
ぼくを探しに絵本と言えば子供向けと思っていませんか?これは自分探しの本です。何度も読み返しながら、自分をみつめることができます。
・「竜安寺の石庭にも似て」
実に久しぶりに 本書を手に取った。
絵本というジャンルは 本当に油断ならない。
小さい子供向けのようでいて 大人が読んでも面白いものがある。子供向けの話だと思って寝転がって読みはじめ 気がついたら最後は正座して読了していたという経験をお持ちな方も多いと思う。シンプルなだけに そこに込められたメッセージが 驚くほど豊かで強烈にきらめかせることができるのは絵本の特権と言ってよい。
本書が描く 極めてシンプルな絵と物語の 読み取り方は無限にある。その「無限さ」こそが本書の最大の魅力である。 読む人によって 主人公が探している「かけら」を何と読むかが全く違ってくると思うし また 読む人の数だけの「かけら」があるとも言いなおせる。
何に似ているかというと たとえば竜安寺の石庭のようなものだ。あの石庭も 「それを何と見るか」は無限だ。そうして 人は自分が 「それを自分は何と見ているのか」を考えることによって 「自分を発見する」ことになる。石庭が人を瞑想に誘うとしたら そこに理由があるはずだ。
同様に 本書を読んでいて「自分は この『かけら』を何だと思うのか」という点は 自問すべきだ。それが 自分を発見することになるからだ。やはりMissing piece=「失ったかけら」とは 「見失っていた自分自身」なのかもしれない。
・「大学時代に・・・・」
大学時代にこの本を題材に論文を書くという講義に参加していました。当時は楽しんで読む事はできませんでしたが、その後ことあるごとに手に取ってみます。現在こどもたちに作文指導をするボランティアをしていますが、題材に使っています。
・「それは「ぼく」なの?」
丸い形をしたものが、その欠けたパイ型のものを探しに出掛けます。倉橋由美子さんの訳では「ぼくを探しに」という邦題が付けられていました。ふた昔ほど前女子大学生に、「アルジャーノンに花束を」などと並んで、とても人気があった作品だったと記憶しています。「自分探し」などという言葉が流行りだしたのは、この絵本のおかげなのか、どうなのか、私にはわかりません。原題は、THE MISSING PIECEなのです。これが「ぼくを探しに」と訳され、たぶん「自分探し」などという言葉の流行に影響を与えたということは、たぶん日本に特徴的なできごとではないか、と考えます。時間があれば、アマゾンの、英語で書かれたレビューを読んでみて下さい。「欠けた部分」というのをどう解釈するか、ということに、日本人と西洋人では違いがあるようです。英語のレビューでの多くは、「欠けた部分」というのは「欲望の対象」、たとえば「つれあい」ですね。それは「自分」の外にあるものです。夫と別れた女性がこの作品について娘と話し合う、というとても面白いレビューがあります。日本の「ぼくを探しに」はその点、対象がない。なんだか自分の頭のなかのことだけでいっぱいになっているような印象が、私にはするのですが、どうでしょうか。
・「孤独感の肯定」
どこかにいるはずのたった一人を捜し求め、見つかっても、やはり、自分は一人だと。探さなければよかったのか?であわなければ?
そうではない、出会って初めて気付いたのだ。ひとりの楽しさを。
訳者が倉橋さんと言うのが少し驚きです。「大人のための残酷童話」しか知りませんが、よくよく考えると、ああ、なるほどと納得しました
・「小学2年生に 与えるため」
小学生の新レインボー漢字読み書き辞典 (単行本)と 一緒に購入しました。2年生に与える辞書がないため、上記の本を見た時に、同じ出版とレビューの意見を参考に決めました。子供も 楽しく辞書をひいています。
・「最近の辞書は楽しいですね」
語彙数で下村式…とどちらを選ぶか迷いましたが書店で見比べ現物を見て気に入り購入。今年入学する六歳の息子用です。まだ一人では引けませんが、「カリオストロの城」を観て興味を持ち他の辞書には珍しい「伯爵」などが掲載されており大満足。私は「広辞苑」でそれぞれ一緒に引いて楽しんでいます。
・「とにかく語彙数!」
最初は「レインボー」という「?」なネーミングや、○学館と比べた場合の人気度から手にとることもなかったこの国語辞典ですが、実際に○学館の国語辞典(某先生推薦)を使ってみてあまりにも調べたい語句が載っていないのが親子共にストレスとなり、その結果こちらの辞典にたどり着きました。子どもの知的好奇心や学習意欲を満たすために辞書で調べるのに、知りたい・調べたい事柄が載っていない辞書、つまり語彙数の乏しい辞書は致命的です。また、低学年からの使用を考慮すると、すべての漢字にふり仮名がふってあることは必須です。以上のことより、この国語辞典は小学校低学年から辞書に親しみたいお子さまに最適だと思います。
・「内容が充実しており満足しています」
小学3年生の子どもが辞書がほしいというので,書店で実際に見比べた結果,本書のほか,光村教育図書の『小学新国語辞典』とベネッセコーポレーションの『チャレンジ小学国語辞典』が最終候補に残りました。この3冊はどれも素晴らしい内容だと思いましたが,『小学新国語辞典』は各語の意味よりも用例が先に載っている点に違和感を覚え,『チャレンジ小学国語辞典』は収録語数が少ない点にやや不満を感じました。本書はこれらの欠点がないうえに,言葉の意味が一番詳しく(たとえば「オーストラリア」の項でタスマニアに言及しているのは本書だけです),絵や写真なども効果的に使われていると思いました。単なる国語辞典の域を超えて,ミニミニ百科事典的な要素があり,私が無知なだけかもしれませんが,大人が読んでもためになる記述が多かったりもします。なお本書にはコンパクトサイズのものもありますが,意味や用例に振り仮名がふってある関係で,子ども用の辞典は文字が小さくなりがちです。子供の目のことを考えると,本書のように少し大き目のサイズのほうが良いのではないのかと思います。いずれにしても,子どもは大変喜んで本書を使っています。購入して本当によかったと考えています。
・「小さい子供でも読める辞典」
小学生になった子供のための国語辞典を求めて、本屋でいろいろ見比べて選びました。この辞典は、全ての漢字にルビがふってあるので小学1年生でも読めますし、字体が教科書体で大きめなので見やすいです。また、収録語数も多く、巻末には小学6年生までの漢字の字典もついています。個人的には、表紙がくたっとして開きやすい綴じ方なのも気に入りました。
・「又よ」
先に出版された3つの巷説百物語の仕掛け人である又一の若かりし頃のお話し。
なぜ、御行になったのか。
人死にをどうしても飲み込めないまだ青い又。足掻く。足がく。あがく。
あちらを立てればこちらが立たず。こちらを立てればあちらが立たず。
理不尽を理不尽として認めない。だけれでも口先八丁でまだ、世の中をひっくり返せない又。
だが、そんな又だから、裏にも表にもなりきれない、幽世と現世を行き来する又の成長期を記した作品。
巷説百物語に始まり、「続」、「後」と続いて終わったかに見えたが、今作を読むことで、さらに又市が心に刻む闇と影を見れる。
否。
この物語を知らずして後の、巷説百物語は無い。
又が、一人。背負おう物はあまりに切ない。重い。誰もが白黒つけられない物を彼一人で白黒つけようとする。
今までの巷説百物語を読んだ人には「あぁ、だから又市は・・・」これから巷説百物語を読み人には「又市って奴ァよゥ・・・・・」
どちらにしろ、本書をまず手にして読むが良いと思う。順番は関係ない。
初めて本書に手を出す人は、この一冊で完結する物語とせず、この後の物語も必ず読み切って欲しい。
一人の。男の。御行が。世を謀る。
その真の意味を知って欲しい。
・「マンネリ。」
巷説シリーズは、やはり『巷説百物語』が一番面白い。この新刊をもって改めて実感。
又さんが青いのは仕方ないとして、お話の筋が「こうなる?あ、やっぱり('Д`)」とすぐに分かってしまうのは「仕方ない」では済まないと思うのは私だけか?
しかし、百介はやっぱ又さんとは「住む世界」が違いますね〜。彼がほんのわずかに現れたシーンは、何だか「ほんわか」しました(笑)
・「読めば読むほどに」
読めば読むほどに、知れば知るほどに又市達のいる世界が切なく哀しくなります。前巷説は又市がどうやって後の御行姿になるのかが書かれています。他の作品内では「行き倒れの御行の着物を剥ぎ取った」と又市は言いますが真実は違ったものでした。全ての話が一つにつながっている、京極作品の醍醐味です。「ああ、これでああなったんだ」と思う場面もたくさんあります。実は私は文庫化されるのが待ちきれなくてハードカバーのものを購入してしまったのですが文庫も欲しいな、と思ってます。
・「ここから始まる『巷説』。」
江戸時代末期から明治初期を舞台にした『巷説百物語』3部作の、更に前の時系列を描いた作品。
依頼人を取り巻く状況や土地に関わりのある妖怪を実在するかのように仕立てて、物事を解決する『仕掛け仕事』。仕掛け仕事の後には、巷に噂(巷説)が残るばかり。本巻は、後にその仕掛け仕事のプロとなる又市の、まだ駆け出しの頃の物語。
本巻に収められた6篇は、又市が青臭い若造ということもあり、人情時代劇の様相すら呈している。無論、ただの人情物で終わらないのが京極流。6編の最終章において、あなたはそれを実感するだろう。
3部作既読なら、又市の青臭さをはじめ、前作までとの差異を込みで楽しんでいただけることだろう。また、同シリーズを未読の方は、ここから読み始めるのもアリだ。
・「わかるわかる」
この本に記載されていることは、私たちにとっては当たり前の事である。よく日常にする光景、状況だったりする。だから、フムフム(そうそう)と共感しながら読むことができる。
じゃあ私たちがよく知っている事柄だから、この本って改めて読む必要は無いんじゃないか?と思うかも知れません。
ノンノン。周知の事実だし、我々が普段感じている事柄なんだけど、本書のように文章でしっかりと書き起こされていることに意味がある。モヤモヤっと思っていた(感じていた)ことがスパッと斬られていて、気持ちがいい。
この本に出会って、こころに余裕ができました。
・「心の「こり」をほぐしてくれる言葉」
一見人生相談のようなタイトルですが、ああ、こういう見方もあるんだな、と気づかされる、本当の意味での「心の処方箋」でした。薄っぺらいハウツーものや自己啓発本のように、このときはこうすればいい、などという安直な答えはどこにも書いてありません。具体的な悩みがなくても、この本を読むと、何かに捕われていることに気づかされてスッと楽になるような本です。人によっては、自分が立ち向かわなくてはならない現実を目の当たりにされて心が引き締まる思いをするかもしれません。これを読んだからといって、悩みが解決するわけではありませんが、確実に、読む前と後で、自分の心のあり方が変わっているような気がします。これからも、何かのたびに思い出してページをめくっては、新しい気づきを感じるかもしれません。読みやすいけど、深い本です。
・「常識を非常識からまもる重要性」
こころの処方箋 河合隼雄 新潮社 1992
・「最悪の本。」
私が今まで読破した本のうちで、最悪の部類に入る本である。なぜなら、著者は、極限まで追い詰められた人間の心理にまで、まったく言及していない。筆者は、人間の心理を全く理解していないと考える。心の処方箋が本当にほしいのは、極限まで追い詰められて、どこにも助けを求められない人達なのだ。この筆者は、人間洞察力が甘すぎる。駄作中の駄作であった。
・「適切な入門書となりました。」
大勢の方々が今までにたくさんのレビューをお作りになっていらっしゃる事がわかり、改めて河合隼雄さんの事を知りたいと思うようになりました。
私は精神的な疲れから病を患ったものですから、余計に感銘を受けたに違いないと思います。
幸い今はもとの仕事に戻る事も出来ましたが、それでもなお、折に触れては好きなところをその都度読み返し、そのしるされた言葉の奥深さを味わう事が出来て幸せに思っております。
さしずめ私にとりましての信心深い方々に於ける聖書的なものとでも表現すれば良いでしょうか。
河合隼雄さんは、残念ながらこの世にはもういらっしゃいませんが、優れた臨床心理療法家であり、優れた人格を備えた人であったと思います。
・「攻撃性」
作者は司法精神医学に通暁し、フランスに留学し研鑽し、数多くの精神鑑定実務にも習熟した精神科医であるとともに、カトリックを信仰し、優れた大文学者でもある。悪魔のささやきという題名であるが、様々な語り口で人間の悲劇を語る、そのキーワードとしてのそれと解したい。人間の歴史に現れた様々な常軌を逸した破壊と憎悪、その悲劇の数々を物語り、更に人間が本来持つ悪魔性に触れつつ、その普遍的事実といもいえる「悪」について考えさせられる。読者は、各々の物語でその「悪」に礼拝し、賛美し、更にはそれに殉じねばならなかったその悲喜劇に想いを馳せることで暫しの心の均衡を保つことができるかもしれない。
が、その「悪魔のささやき」という言葉の持つ静的な文脈よりも、「攻撃性」「行為」という時間軸に沿った人間の「悪」をより精緻に記述したのは精神医学の中でも精神病理学ではなかったのかと思う。攻撃性への抑圧を制御してきたのは「自我」の持つ健全性であったはずなのであるが、その健全性を担保し得るものが容易に失われる、あるいは一時的に機能不全に陥りやすいのが現代の病なのかもしれない。
その機能不全の病理の精緻な記述こそが、今後の精神科医に課せられた課題でもある。この課題が難題であり、常に事後的に過ぎないのは、昨今の金融危機における経済学者の困惑と共通していることも同じであるが。
・「犯罪者になる瞬間」
殺人犯についても、自殺者についても、悪魔がささやくのだそうです。
凶悪犯罪の犯罪者の多くは、普通の人達であり、それが悪魔のささやきで罪に至る。 悪魔は、一瞬にささやくともあり、1年、2年とささやき続けることもある。
自殺も、悪魔のささやきがあったとしか思えない。 自殺した人達は、助けられた後に、皆さん異口同音に「助かって良かった」と言うそうです。命を絶とうとした最後の瞬間については、ほとんどの人が多少表現の違いがあるものの、ややり、「悪魔がささやいた」というようなことを口にしていた。
精神科医で犯罪心理学者である作者が、犯罪者との面談や臨床医の経験、さらにヨブ記、失楽園などまで広がる人間の心理についての奥深い洞察を、悪魔のささやきとして位置づけて語った良書です。
・「世の中は悪魔のささやきで満ちている」
このような本を読むと,実は毎日のように悪魔にささやかれているんだなと改めて認識します.そして,そのささやきに耳を傾けるかどうかは,その時の精神状態に大きく依存するのでしょう.そして,これは理性や判断力とは別の次元の話のような気がします.
私自身もいつ何時,心のすきまに悪魔のささやきが入ってこないとも限りませんし,本当に心にポッカリと穴があいてしまえば,抗しきる自信も実はなかったりします.悪魔につけ込まれないために広い視野を持ち,宗教の本質を知り,死のむごさと向かい合いなさい,そして人格を育て,確固とした人生への態度を身につけなさいと説いています.ただ,そうだとしてもそれでも心のすきまに入ってくるのが悪魔のささやきではないかと思います.
ちょっと怖いですが,いろいろな事例をもとに自分の心の内面と向き合うことのできる1冊です.
・「魔がさすとは?」
「現代日本で起こっている不可解な出来事、犯罪、自殺、いじめ、特に子供が被害者となる殺人、そして流行を追っていうこと」を著者は、比ゆ的に「悪魔のささやき」と呼び、日本の危うい状況を精神科医と作家の目から見て分析し、警鐘を鳴らしているのが本書です。
著者は、文学的・宗教的ニュアンスのある「悪魔」という言葉は使いたくなかったそうですが、他に適当な言葉がないため、この言葉を使ったと述べています。まさに現代日本に起こる出来事や事件には、悪魔にささやかれたとしか思えないことが頻発しています。それがなぜなのかを社会の刑務所化や関心の狭隘化(きょうあいか)といった用語で分析・説明し、悪魔のささやきに惑わされないための提言を行っている、まさに今こそ読むべき緊急の書です。
新書ながら密度が濃く、自分はそんなものには騙されない、惑わされないぞと高をくくっている人こそご用心。
・「うお!」
正直、敬意を込めて「よくこの本を出したなー」と思った。
この本をこの世に出すってなかなか出し、加賀さんも多分相当狂っているだろうなと感じる。
ネガティブなことをネガティブのまま終わらせず、うまくポジティブな方向に持って行ったいい本だと思う。
この本を読むには勇気と狂気と酔い止め薬か頭痛薬がいると思う。
僕は、読みながら吐き気がしたし自分の狂気を抑えるのに苦労した。
それと頭痛がした。
それほど、素晴らしい本であった。
悪魔のささやき・・・、僕もありますよ。
「こっちにおいで」って手招きされますからね。
最後の方の個の確立の大切さ、僕も同意です。
・「言葉のまま、自分で感じてほしい」
勝海舟のことを知りたくてこの本を購入しました。海舟が過去を振り返りながら話した内容が記載されていて、さらにその話し言葉のまま記載されていますので、非常に面白かったです。内容の補足は細かく注釈を設けて解説されていますので、理解も深まります。しかしながら、従来の氷川清話(吉本著)の批判が多く、前書きにて吉本さんの内容とは対比せずに海舟の言葉のみを載せることとしたと言っているのに、注釈に吉本さんの話を出して、対比して批判しているのは、いらないような気がします。あと、時期とかもすごいこだわっていて、海舟の思想だけを知りたかった私としては、年号の訂正の解説は不要に感じました。海舟が何年に何を考えていたかを正確に時系列を追って知りたい人は、いいかもしれません。そのほかの解説は、分かりやすくてありがたいものですので、惜しいといったところです。海舟の言葉本文は必見です。2度目を読むときは、注釈を読まずに、海舟の言葉のまま自分で解釈して学びたい一冊です。
・「解説が・・・」
本文については満足ですが、解説が・・・何と言えば良いか・・・かなり異様です。吉本氏に対する個人攻撃が、まるで極悪人を断罪している様で、ものすごく読後感が悪くなります。編者たちが海舟語録の復元に費やした労力には敬意を払いますが、この解説は負のベクトルが強すぎてバツだと思います。
・「粋でイナセな江戸っ子の放言譚」
勝を嫌う人間は大抵が小説家の勝観が元であることが多い。曰く、近藤勇を見捨て、会津を見捨てた男ということらしい。だが、勝を嫌う前に勝の置かれた立場を考えるのが先決であろう。
ある意味勝の放言ばかりであるが、それだけではない勝自身の反戦観が書かれており日清戦争を「兄弟喧嘩」という例えは優れているかもしれない。言いたい放題言いまくった勝ではあるが、的を外さず厳しい警告は現代に相通じるものがあるのかもしれない。
・「幕末を30年生きた男の肉声を聞いているような文体。」
勝海舟は幕末を30年生きた。自分を殺しにわざわざ自宅に来た竜馬を海外に目を向けさせ、西郷と談判して無血開城させ、大久保に東京の繁栄をたのんだ。 幕末から明治の生き証人は、維新後30年して、徳川慶喜を明治天皇に会わせることによって仕事に締めくくりをつけた。 本書は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などを読んでおくと、人物評伝等はとても興味深く読めることでしょう。また、今日の政治のあり方や当時の時勢を知る資料ともなるでしょう。 しかし、今の時勢にこういう人はいない。貧乏は30まで続いて庶民の気持ちもよく分かるようだし、剣術・禅の稽古で胆力を鍛えたようだし、学問も「活(いき)(学問」だという。なんといっても弁が立つ。 勝が生きていたら「みんな間の抜けた政治家ばかりだよ。外交もなにもできていない。いつの間にかマグロも日本の食だと独占していたら、海外に占拠され始めた。ものの値段もどんどん上がるね。市場原理だ。規制緩和だなどと、内向きの都合のいい法螺吹いていないで、外を見ないと、朝鮮やヲロシアにやられちまうんじゃないかい。」などと言うかもしれない。
・「べらんめえ 勝海舟でスッキリ」
勝海舟のべらんめえ口調で歯に衣着せぬ物言いが味わえる本です。
江戸無血開城の幕府側の立役者、勝海舟。 1899年明治32年77歳で亡くなった彼の、 晩年70代の頃の言葉とは思えぬほど威勢のいい言葉が収められています。
語られているのは、自分の生い立ち、幕末動乱期の体験、 出逢った人々の事、 その中でも特に西南戦争で自刃した西郷隆盛についての想い出の数々が感動的です。
こんな口調で語っています。
「西郷に及ぶ事が出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。 オレの一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。 オレだって事に処して多少の権謀を用いない事もないが、 ただこの西郷の『至誠』は、オレをしてあい欺くに忍びざらしめた。 この時に際して、小籌浅略(しょうちゅうせんりゃく)を事とするのは かえってこの人のために、腹を見透かされるばかりだと思って、 オレも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しも、あの通り立談の間に済んだのサ。」 平易な言葉で時事、当時の明治政府への批判なども語られていますが 様々な事柄に言及する言葉には『武士道』が一貫しています。
言行一致、肉体を離れた観念は意味がない。 強い肉体に強い精神が宿る。 政治は常に『正心誠意』
刺客に狙われ続けた海舟ですが、常に丸腰で応対していたそうです。 自分を殺しに来た刺客に対して 『お前の刀は抜くと天井につかえるぞ』とか 『斬るなら見事に斬れ。勝はおとなしくしていてやる』 などというと、たいていの者は向こうから止めてしまった、 こんな風に一度も逃げもしないで、斬られずに済んだ、などとという逸話も語っています。
こんな豪傑の75歳の時、翌年の戌年への発句がこれです。 「男らしく 大喧嘩せよ いぬの春」
・「昭和初期の詩的表現の賞味期限が切れた後」
昭和初期の詩的表現の賞味期限が切れた後の著作という印象を受けました。
東北の田舎に行くと、今もこの著作の雰囲気そのままの寒々とした山間部が広がっています。そこに詩的な情緒を見出し、文学的に結実させた川端康成の筆力は見事です。しかしながら、その東北の田舎の生活の中で川端が見出した情緒を感じるには、現代は忙しすぎ、情報過多にすぎるのです。俳句や短歌を思わせる見事に絞られた文章は、ひとつひとつの語句が明示したり暗示したりする山の風景よりも、都市部以上に閉塞感に行き詰まってしまった山間部の貧しさと失望をあらわしているように思えて、読むのが苦痛でなりませんでした。
ヨーロッパでも南米でも中東でも中央アジアでもどこでもいいから、どこか別の国での話なら、詩的表現の鮮やかな傑作と手放しで喜べたのかもしれません。あるいは、昭和の終わりに回顧趣味の一環として読めばよかったのかもしれません。文学における価値というものを考えさせられる読書となりました。
本レビューを不快に思われた方には、私と同じように感じるかどうか、ご自身で読んでみていただければと思います。
・「島村が関与しない駒子の悲しみ」
先ず感じるのは本書が持つ映像的感覚である。風景描写や場面展開などはそのままでシナリオになりそうだ。同様に心理描写が島村を除いて全くないのも、映画は人物の心理を行動で描くものだと思えば納得できる。読者を悩ます一つに葉子の曖昧な存在があるが、映画的に観れば、葉子が駒子の内面を示していることは一目瞭然である。分身を別人格で示すことは映画の常套手段であるからだ。実際語り手も冒頭から鏡になった客車の窓に映る葉子を繰り返し述べて、彼女が虚像であることを強調している。 さて島村は「憂鬱症」に罹っている。これは当時近代的知識人であることの一つのポーズだが、こう言っては身もフタもないので、社会学的に分析すれば、物語の背景である昭和10年代の軍国ナショナリズム高揚に背を向けて、親の遺産で食いながら観たこともない西欧舞踊を評論している島村が、自分を役立たずで「無為徒食」な人間と感じるのはうなずけることである。都会を逃れてきた山中の温泉宿で、島村は自由に動き回る駒子と出会い、その圧倒的な存在感に促されてしばしの間自我を取り戻す。 だが駒子は決して「自由」ではない。幼い頃酌婦に売られ、身請けされ、踊りの師匠を頼ってこの温泉街にきた今も、港町に「旦那」がいる。踊りの師匠が素人娘ではない駒子と息子の行男との結婚を拒んだとしてもおかしくないだろう。駒子に出来ることは、年期芸者になった前借金で、愛する幼なじみの入院費を肩代りすることくらいしかない。行男に最後まで付き添って看病し、駒子と島村の情事を冷たく見つめる葉子は、駒子の願望の化身である。 島村は駒子のなかに“玄人”を観たくない。だから語りはしきりに駒子の「清潔」さを強調するが、島村は田舎娘と交渉している訳ではない。花柳界の制度として駒子が旅館にいる時間は「線香」で計られ料金に加算されているのを承知しているのだ。駒子は島村の旅館で「見えん、見えん」を繰り返す。目が悪くなったのではなく、「僕には何もしてやれないんだよ」と繰り返すだけの島村との行く末が見えないという暗示である。島村には東京に妻子もおり、こんな時勢のなかでも「豪華本」を自費出版し、まだ世間に認められたいと思う虚栄心もあり、「国境の長いトンネルが」の両側に二つの世界を共存させている。 駒子は年季明けまでは東京に行くことができないが、分身の葉子は「私を東京に連れて行ってください」と駒子の本音をいう。駒子は葉子を指して「そのうち気ちがいになる」と言うが、気が狂いそうなのは駒子なのである。 島村が帰ろうと思っている夜、繭蔵が火事になり、そこで「映画」を観ていた葉子が二階から落ちる。駒子は走り寄って彼女を抱きかかえ現場から引っ張り出そうとする。島村は「駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように」と感じるがそれは少し正しくない。駒子は自分自身を抱いているのである。 駒子の変貌は山から降りた島村が駒子と出会った春からの199日の間にあった。行男との結婚をあきらめ、芸者になって行男の入院費を支払い、神経を患って二ヶ月休み、浜松男のしつこい求婚を逃れ、島村との妊娠を疑い、死を待つ行男をおなじ住まいに迎入れる。その間島村は赤の他人だった。それを想う時、駒子の孤独の悲しみが読者の胸に突き刺さる。短編といえども、ノーベル賞作家の書く小説は矢張りただものではない。
・「美的」
ノーベル賞作家 川端康成の作品です。さすがに繊細で美しい文章だと思いました。日本的な美があると思いました。初め退屈していたのですが、読み進めるにつれ、その世界観に魅了されていきました。しかし、十分その味わいを感じ取れていなような気がして、もう一度読んでみたいと思っています。ななめ読みするような本ではなくて、しっかりと読む本だと思っています。何回か読むと本当の魅力がわかる本のような気がしました。また、川端康成という人の作品を読んでみたくなりました。巻末には、かなり詳しい作者の年表が載せられていて、作品を味わう時にかなり参考になると思います。作家の名前は、勿論有名で、初めて作品を読んでみました。最初は、古くて、あまり期待できないのかなと思いましたが、さすがの作品でした。
・「雪国は」
この作品の中の執拗なまでの美に関する描写、余りに感覚的な描写は、共感の難しい事が多い。しかし、特に女達の言動の描写に関しては、非常に生々しく、壮絶でさえあり、只今の人々でも何か深い印象を残される人が多いのではないか。自分はところどころの台詞の響きに、尋常でないものを感じた。
・「「美」の瞬間を言葉で掴まえた物語。」
学生の頃読んだ記憶がありますが、改めて読み直してみて、学生では到底手に負えない作品であったことが理解できました。冒頭の「国境の長いトンネルを・・・」が余りに有名なので誰もが若い頃に一度は手に取る作品なのでしょうけれども、「美」「エロチシズム」という感覚的、心理的なものを言葉で掴まえた難解な作品だと思います。壮年になってもう一度読まれてはいかがでしょう。正直、何度繰り返しても理解できない部分もありました。それは多分、自分が生きている間ずっと捜し求める人生上の課題になるような気がします。川端文学の独特の省略と比喩によって読む側も神経を研ぎ澄ましながら読み進むことを求められているように感じます。ぐさりと突き刺さるような形で物語が終わりを告げたとき、その余韻は残雪のようにずっと消え去ることがありません。日本文学の頂点にある一冊であることは間違いのないところでしょう。こういう作品を読み終えた時には、伊藤整氏の解説は助けになります。
・「現代の神話「1Q84」」
人の一生は四季たとえられる。それはライフサイクルといわれる。(河合隼雄著『生と死の接点』参照)春から夏は自我の形成期であり、秋から冬にかけては人生の全体性を把握し自分なりの世界観を完成させるときである。昔話により、内的な成熟過程のある段階を理解することができる。河合隼雄『昔話の深層』では西洋の昔話から西洋人の自我の確立過程を描き出している。西洋の昔話の多くのパターンは、「英雄が怪物を退治してお姫様と結婚して幸福になる」である。これは英雄(自我・意識)が怪物(太母・グレートマザー・無意識)から自立して自我を確立して、結婚により心の全体性を獲得すると解釈される。また、同じ河合の『昔話と日本人の心』では日本昔話から、日本人の心の世界を読み取っている。日本昔話では、「普通の男に突然あちらの世界から美しい娘が現われて男に求婚して結ばれるが、男が禁止事項を破り、女は去っていく」、という形で結婚は女性が申し込むということで、男は受身の立場である。ここでは、西洋の昔話と同様の理解は成り立たない。そこで河合は結婚を申し込む女性の方に注目して、分析を試みたのである。つまり、東西の自我の成熟過程には違いがあり、西洋人の自我は男女の区別なくともに男性像であるのに対して、日本人の自我は男女の違いにかかわらず女性像であらわされる。さて、昔話は共同体に語り継がれた物語である。物語の役割とは何であるか。人間は経験したことを心の中に収めるために、その経験を自分に納得のゆく物語にして生きている。神経症に悩んでいる人は、何らかの経験を自分の生きている物語にうまく組み込めていない。(『物語を生きる』参照)さて、村上の小説『1Q84』は、現代人のライフサイクルの表現として読めるのではないか。河合隼雄が『昔話と日本人の心』で見いだした「意志する女性像」(前段で述べた日本人の自我をあらわす女性像)と『1Q84』の「天吾」と「青豆」の男性、女性像の関係は何を意味するだろうか。『1Q84』を現代の昔あるいは神話として再読したいと考えている。
・「人生を変える良書」
この本は、私にとって人生を変える一冊になりました。
・「後半の物語を読んでから」
私はいつも本は先頭から最後まで順番に読んでしまいます。ですが、この本はやっぱり先に本の後半に書かれている昔話の方を読んでおいて、それから本文を読まないといけません。
それはともかく、「グレートマザー」や「影」等の概念が昔話を実例にして書いてあるので、とてもわかりやすい良い本だと思います。 どのような概念も実際に起こっていることをうまく説明できないとつまりません。実感を伴わない概念はうまく使うことはできないと思います。 その点、この本はユングの元型を軸に昔話という実例とそれに伴う気持ちの揺れなどを織り交ぜながら書かれています。 そういうところがとっても好きです。
・「運命の出会い」
この本にもっと早く会わなくて良かった。
もっと早くあってたら臨床心理士を目指しちゃってたかもしれない。
この本を読んでると何度も背筋がぞくぞくした。怖いってわけじゃないけど恐ろしい。
・「ユング心理学による昔話の解釈」
本書の最初に出てくる昔話は「トルーデさん」。たった2ページの話だが衝撃の結末に目を疑う。これを河合隼雄はユング心理学の元型の一つ『グレート・マザー』の暗黒面の現れと解釈している。昔話もこういう見方をすれば、より深くそして怖ろしいものだと思い知る。この本を読めばユング心理学が概観できるので何度も読み返したい。著者のご冥福をお祈りしつつ、星5つ。
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