金閣寺 (新潮文庫) (詳細)
三島 由紀夫(著)
「モテナイ男の悲哀」「日本文学の最高傑作」「人の醜さと美しさ」「共感できるか」「読みづらい。」
春の雪 (新潮文庫―豊饒の海) (詳細)
三島 由紀夫(著)
「好き嫌いの問題では。」「溢れる美意識」「ストーカーの原型か?」「日本文学の美しい頂の一つで。」「日本文学における一つの頂点」
仮面の告白 (新潮文庫) (詳細)
三島 由紀夫(著)
「悪習にお困りの少年諸君に是非とも読んでもらいたい。」「初恋に破れた痛恨からの回復術」「殺人者たる少年時代の自分を描いたもの ?」「万人にお薦めできる作品(ただしR15くらい?)」「三島作品の入門編として最適」
「映画化は必然」「文部科学省特選 賞をとるために書いた大衆の好みに迎合した失敗作品」「流石ですな!」「素直で純朴な恋愛小説。いい。」「良いです」
不道徳教育講座 (角川文庫) (詳細)
三島 由紀夫(著)
「2ちゃんねるやってないでこれを読め。」「不道徳のススメ」「『悪が美しく見えることは、つまり我々が悪から離れていること』」「不道徳なのに爽快感抜群!」「艶っぽい最上のエッセー」
三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫) (詳細)
三島 由紀夫(著)
「あの三島由紀夫が!!」「皮肉は美でなければならない」「満里奈もおすすめ」「めちゃくちゃ好き。」「うーん。氷ママ子か。」
葉隠入門 (新潮文庫) (詳細)
三島 由紀夫(著)
「深い」「後半の葉隠の現代語訳が重宝する」「生の意義」「「葉隠」から生と死を考える」「「死」から覚める「生」」
「三島ワールドの背景を深く知りたい人のための本」「二つの対立」「誰が悠一を演れるのか」「三島にとっての理想の美青年像だが、女の目から見ると?」「小説の中の小説−−20代でこの小説を書いたこの作家の天才」
花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫) (詳細)
三島 由紀夫(著)
「これこそが小説だと思う」「魂を連れ去る明晰な神秘」「三島のエキス」「ほとばしってます」「憂国」
天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海) (詳細)
三島 由紀夫(著)
「深い感銘を受けた。」「「救いようの無い終わり方」を極めたシリーズ最終巻」「三島の理解者」「美と醜の対比」「完成された芸術」
文学・評論>エッセー・随筆>日本のエッセー・随筆>近現代の作品
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・「モテナイ男の悲哀」
金閣寺は、モテナイ男の悲惨が良く描かれている、それは不器用さとチャンスを逃すひねくれ人間の破滅の結末だね。主人公はひたすらもったいない行動をするが、それを自分でも止められないところが知力不足のところだね。内容はスピード感があって面白い、三島由紀夫もよほど不器用な男だったんだと思いました。
・「日本文学の最高傑作」
まるで荘厳な音楽を聴いた後のような読後感。これほど精神の奥底を鼓舞される作品を残した三島由紀夫の天才に感嘆する。
・「人の醜さと美しさ」
内容は、けして明るい訳ではない。しかし、表現が深くて綺麗で苦痛なく読み進めてしまう。
感じる嫌悪感や親近感は、同属嫌悪なのだろうか。誰しもが完全に否定することの出来ない、所謂青春の素晴らしさや恥ずかしいみっともなさ。
『鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終わってしまったあとなのである』という一節と、金閣寺の鳳凰が時間の中を飛んでいるという表現が特に心に残った。
・「共感できるか」
私の様な未熟な高校生としては主人公の思考過程に強い共感を覚える。そうでなければ読みすすめることはなかっただろう。
自分の脳ミソが自身を不可避な破滅へと責め立てる感覚。
もし私なら、認識に留めて、行動には至らないだろうと思った。
・「読みづらい。」
私には「饒舌な文章」には見えても「美しい文章」には見えなかった。難しい言葉がたくさん並べられているから意味不明、というのではないが、言葉同士のつながり方がごつごつしているようで読みにくかった。
まあ、文体は些末な部分であって、筋書きは良かった。ヒネクレた若者らの行動・思想は面白く読めた。ラストシーンにおける溝口の振る舞いも良かった。
・「好き嫌いの問題では。」
愛読する藤沢周平の「蝉しぐれ」の書評に「春の雪」の方が3倍ぐらい良いとの書評があったので、久しぶりに三島の著作を読んでみた。全く異質の小説なので比較は不可能と思うが、どちらが好きかと言えばやはり「蝉しぐれ」が好きである。 「蝉しぐれ」は、青年武士の成長ものがたりで、人間、逆境にもめげず、こつこつと研鑽を重ねて努力することが、いかに大切かという事を痛いほど感じさせる。悲恋ものでありながら、読後感は、さわやかである。 文体は、シンプルでありながら、情景が目に浮かび、まるで読者が作中人物になって小説世界の中を歩いているような錯覚さえ起こす。いわば、わび・さびを感じさせるもの。 一方「春の雪」は、屈折した青年心理を描いた破滅型に近い内容で、悲恋と言えば悲恋だが、読後感は悪い。文体も時に食傷気味になるような絢爛豪華な装飾に満ちている。西洋的と言えば西洋的である。おそらく藤沢周平が描いたら、3分の1の分量ですんだだろう。(藤沢周平の著作の中身が薄いということではない。) 藤沢周平は、1編を除き、時代小説しか書かなかった為、純文学ファンからは、大衆小説作家扱いされているが、その力量は、余りあるものがある。特に「又蔵の火」のような初期の情念に満ちた作品は、三島が生きていたら、絶賛したのではないかと思う。 唯一の世話物の長編「海鳴り」には、圧倒された。しばしば不倫小説の汚名を受けるが、人生のすべてが入っていると言っても過言ではない。
・「溢れる美意識」
【豊饒の海】の第1部です。 映画化もされて有名ですが、作品中に流れる独特の空気や世界観が、ただもう美しく圧巻です。 綴る日本語や描写の美しさも然る事ながら、舞台となる貴族社会の儚さや、主人公である清顕と聡子の外見、内面、生き方、振る舞いの優雅、叶わぬ恋の激情の最中で、偏執した感情と狂気、命がけの恋を貫く強さと美しさ。 三島文学独特の美学ではないでしょうか。 ほんと日本語って美しい!
・「ストーカーの原型か?」
【ネタばれ】
・「日本文学の美しい頂の一つで。」
多くの方々が一つの誤解の上に三島のこの作品もまた評価している。三島の文章は美しい文章かも知れないが、けっして「美しい日本語」ではない。それは過剰な外延のバロック的氾濫であり、醜と紙一重の、危うい均衡の上に構築された、良く言えば巧緻な、悪く言えば大仰な、畸形の日本語なのだ。三島の作品を読んでいて、後頭部に観念の滓が重たく沈殿していくような感覚に襲われるのは、そのせいである。三島が最後に渾身の力を揮って彫琢した、人工の鋭鋒。その純白の峰々から紫の薄雲を透かして、今、我々の前には、どんな眺望が射影してくるのであろうか。願わくば、それが豊穣の海であらんことを!!
・「日本文学における一つの頂点」
これほどにまで美しい日本語に触れた事はありません。読んでいて震えと溜息が止まりませんでした。
今は失われてしまった(三島氏に言わせると戦後の経済発展と共に我々が棄ててしまった)、美しい精神がまだ活きていた頃の四季豊かな日本に触れる事が出来ます。(三島氏の発言については『果たし得てゐない約束−私の中の二十五年』を参照されたし)
何より素晴らしいのが、瞼の裏に鮮やかに浮かびあがる情景描写の圧倒さ!そして手に取るように伝わる清顕や聡子達の心理描写に於ける表現力の巧緻さ!
登場人物の感情は勿論の事、感触、温度、匂いといった五感、更にはその時の心拍数に至るまでが、まるで我が事かのように強烈に伝わって来ます。私は毎回、読後は余りの表現の美しさに当てられてしまい、暫くは酔ったように上気し惚けてしまいます。
日本に生まれ日本語を話せる事を本当に良かったと思える一冊です。まあ、話せるのと理解するのは別の問題なんですが。知らない日本語がバンバン出てくるので国語辞典と首っぴき状態でした・・・
海外でも多くの国で翻訳され愛されている三島作品ですが(翻訳数では特にイタリアなど)、しかし他国語に翻訳すると、この作品が放つ繊細な日本語の美しさが損なわれて表現しきれないのではないか?と思ったりもします。三島作品は日本語でこそ最も輝くのだと!
私は、ドストエフスキーにトルストイ、ヘッセやシェークスピアなどを原文では読めず、訳者のセンスに頼るしかない海外作品に触れる時、少し寂しくなる事があります。「今、読んでいる翻訳された作品は、著者の私生児のような物なのか? 原文(嫡子)を読んでいる人達の受ける感動に、限りなく近付けたとしても決して同列になれないのでは?」という引け目を感じるからです。(訳者の先生方、すみません! 原文が放つ音の美しさなどを知る、知らないは私の学力の問題だと百も承知です。)
しかし、もう寂しくありません!何故なら日本語には三島作品があるのだから。三島作品を一番楽しめるのは我々なのだから。
日本人の文豪は三島由紀夫以外にも居ますが、日本語の表現力にこれほどにまで感動したのは初めての経験でした。おかげで日本語に誇りを持つという、巡らせた事もない考えに目覚めました。当たり前に使用し過ぎていて価値に気付かないでいたんですね。三島先生、有難うございました。
没後40年近くになりますが、私はまだ世間の三島由紀夫への評価は不十分だと思っています。未だに三島事件の印象が強すぎて、戦後の事勿れ主義的欺瞞な平和主義に浸りきった我々日本人には著者への冷静な評価が出来ないでいるのだと。哀しい哉、三島文学は世界の方がよっぽど評価しているのが現状です。
新渡戸稲造の『武士道(Bu-shi-do)』や映画『ラストサムライ』のような逆輸入型自国再評価、再認識の羞恥をあと何回繰り返せば我々日本人は自国を誇れるのでしょうか?先達が遺した自国の文化、芸術ぐらい自国民で評価出来ないでどうするのか!?
他国の評価を窺う事は謙虚でも美徳でもない。自分の産まれた国ぐらい自分達で誇れないでどうしますか?それを傲慢だ!尊大だ!というのは、大きな間違いなのです。今の日本を思う度、三島氏の遺した『憂国』の言葉が私の中で重みを増すのです。
三島文学が50年後、100年後には今よりももっと冷静で正当な更なる評価がされているのを信じて止みません。
偉人を知るには我々はまだ彼の死に近すぎるのだと思います。
・「悪習にお困りの少年諸君に是非とも読んでもらいたい。」
この小説は、三島自身の少年時代をモデルにした虚弱体質な主人公の、性の対象が男であることの告白に注目されがちだ。しかし私は、この少年の悪習の告白にもまた、惹かれた。
男性諸君なら誰もが悩まされる悪習。女性にはわからないであろう性欲の愚直な解放習慣。その汚濁習慣を、少年の抱える心とともにを清く美しく書きたて、何か神聖な儀式をしているかのように錯覚させる文体に、私は感銘した。
もし悪習にお困りの少年がいたら、この三島の表現する悪習の美的な文体に打ちのめされて、自分の悪習の醜さをより実感してほしい。
・「初恋に破れた痛恨からの回復術」
21歳当時の三島由紀夫の大学ノートに、初恋の人に再会したこと、彼女への未練などが記されている。 『偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、 近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。 彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略) 「さよなら…お大事に」……云ひちがへて「お元気で」 「ええ」彼女は背を向けた。 …その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。』(一部抜粋) 三島由紀夫が仮面の告白を書いた動機は、彼女(作中では園子)と結ばれなかった痛恨、 その原因を自己分析自己解剖することだった・・ 徹底的に自己を客観視し、他罰的にまで自己解剖した青春の告白は、 悲しくも残酷な一編の詩のようにギラギラと反射し、不思議にプラトニックな美しさに輝いている。 「一秒経つた。何の快感もない。二秒経つた。同じである。三秒経つた。――私には凡てがわかつた。 私は体を離して一瞬悲しげな目で園子を見た。 彼女がこの時の私の目を見たら、彼女は言ひがたい愛の表示を読んだ筈だつた。 それはそのやうな愛が人間にとつて可能であるかどうか誰も断言しえないやうな愛だつた。」(「仮面の告白」本文から)
・「殺人者たる少年時代の自分を描いたもの ?」
三島の小説は全て観念小説であり、その目指す所は「美」である。本作は自伝的小説と言われるように、自身の男色を「告白」したものであるが、三島の小説に常に伴う弁解的要素が特に強く感じられる。
三島が自身の貧弱な肉体にコンプレックスを持ち、身体を鍛えるためにボディービルに通っていた(特に腹筋を鍛えていた !)事は周知だが、その三島のコンプレックスを、逞しい男友達に肉欲を感じる主人公に仮託し、男友達への憧憬、懊悩、同性愛の美化と正当化、そして自己嫌悪を、園子と言う女性とのプラトニックな愛を交えて精緻に綴ったもの。
多分に脚色はあり、トリック・スターの一面がある三島の虚構とも取れるが、概ね三島の真情を映し出したものと言えよう。私は高校時代、男子校と言う灰色の生活を送ったが、自分や周囲の人間で、こんな関係は聞いた事がない。作品に引き込まれると言うよりは、嫌悪感に近いものを感じながら、最後まで読み通した。どうしても、「同性愛の正当化」としか取れないのである。愛に正統も異端もないのであるから、もっとアッケラカランに「告白」すれば、清々しさを感じたかもしれない。三島は、「少年時代の自分に殺されたいという甘い滅亡の夢」を持っていたと言うが、本作も殺人者たる少年時代の自分を描いたものに思えてならない。
・「万人にお薦めできる作品(ただしR15くらい?)」
文章は哲学的でかなり難しいですが、そのあたりはご愛嬌。僕自身、理解できない文章と理解できる文章が交錯しているという感じでしたが、三島由紀夫とはそう言うものだと考えるのがいいかと思います。全部理解できたら逆に怖いです。
三島の処女作は、彼が16歳の時に書いた『花ざかりの森』だと言われていますが、僕はむしろこちらの方が処女作にふさわしいものであると思います。と言うのも、『花ざかりの森』は、16歳のころに書いた文章だけあって、さすがに若すぎる文章であり、その後の三島の小説や言動の根幹を成すものはあまり内包されてはいないように思うからです。三島自身も短編集『花ざかりの森、憂国』の巻末の自らの解説で、『花ざかりの森』をあまり評価していません。
他方この小説には、ホモセクシュアルをはじめとした三島のその後の小説、言動のエッセンスが詰っています。小説家は処女作を超える作品を出せない、と言いますが、三島もそれはある意味で例外ではないと思います。
しかし、三島は相変わらず同性愛者の心理を理解しすぎています。24歳と言う、小説家としてはいささか若すぎる時期に、ここまで詳細に同性愛者の心の変遷を綴る事ができるのだから、三島自身は実は本当に同性愛者であったのではないかと疑ってしまいます(笑)。
多くの小説は愛や恋を扱っています。実際三島もそのような小説を書いています。しかしこの小説で書かれているのはそれらではなく、もっと原始的な『性』であるように思います。時には繊細に、また時には大胆に迫りくる心理描写に彩られた、めくるめく『性』の描写。この小説を手に取った方には、ぜひこの描写を堪能していただきたいものです。ゲイの方は言うまでもなく、ノンケの方にも読んでもらいたい一品。
・「三島作品の入門編として最適」
日本語が美しい。内容が興味深いものなので、思ったより読める。これはノンフィクションなのかしら?気になるところである。
・「映画化は必然」
文章の半分は情景描写に費やされています。東海の小さな島の春先から夏にかけての美しい自然と、そこに住む人々の素朴な日常が描かれる、いわばビジュアル小説です。何度か映画化されたのは必然だったのかもしれません。 ストーリーは実にたわいもないもので、この方面への期待はしない方がいいでしょう。解説によると、現代日本版『ダフニスとクロエ』だそうです。
・「文部科学省特選 賞をとるために書いた大衆の好みに迎合した失敗作品」
本書は、三島のヨーロッパ旅行の成果を踏まえて書かれたエーゲ海趣味の作品だそうだ。発表当時のベストセラーで、読売文学賞を受賞している。
今から40年ほどまえ、小説の舞台となった神島に出張が決まり、『潮騒』をよんだ。歳月が流れ、昨年「三島由紀夫文学講座」を受講した。久しぶりに三島の一連の小説を10作ほど読んでみた。
本書は、三島の作品には珍しく、健康的な青春恋愛小説として読める。 だが、三島の一連の作品には、正直言って失望した。
三島は、大蔵省で上司の課長に言われたと本人が告白しているように、文章が下手だ。 本書においては、『仮面の告白』のように同性愛者の病的な不健康さはみじんも感じられない。だが、三島の本書創作の意図は、どこにあるのか。
私には、一般読者の好みに迎合した健康優良児のような、つまらない作品にしか思えない。主人公2人の恋愛観は、高校生レベルの幼いもので、深い哲学的な意味はない。
要するに、本書は、三島が世間の受けを狙って書いたどうしようもない作品のように私には思われる。
また、三島は世間でいわれているような才能ある作家ではない。映画監督やらヌードモデルなどで、マスコミが作り上げた時代の寵児に過ぎない。1970年にハラキリをした時代錯誤のイカレポンチにしか私には見えないのだ。
・「流石ですな!」
この題材はよくありがちです歌島という閉塞的環境そんな中にいるのに逢瀬を得られない葛藤それを乗り越え結ばれる二人。。。等等
それを三島が書いたらどうなるのって話ですよホロヴィッツのモーツァルトみたいでね圧倒的な文章力をみせつけられた感があります他の人が書いたらどうなるんですかねえ感動的なケータイ小説レベルでしょうねどんなに頑張っても流石です三島由紀夫!
・「素直で純朴な恋愛小説。いい。」
初めて読んだ三島由紀夫の小説。
あまりにも著者の最期のイメージが強くて、おっかなびっくり、読もうか読むまいかと思っていた彼の作品ですが、ままよと思って薄くて読みやすそうな一冊を購入して読みました。そうしたら予想外に素朴で素敵な純愛小説だったので「へぇ〜、これがあの三島由紀夫が書いた本なんだ〜」と、今までのイメージをいい意味で裏切られたことに素直に感動しました。
この小説の舞台は昭和30年頃の歌島(地図上では明らかに三重県の神島・・・。名前を変えているだけのようです)。この島の暮らしや情景等を自分がまさに見ているように感じられ、またそのイメージはモノクロタッチなのに、時々見られる色使いや吐息のようなものを肌に感じられるほどに文中の人たちが生き生きと描かれているのは、著者の文章の巧みさのお陰だと思います。※文章が読みやすいのは、旧仮名づかいで書かれているものは新仮名づかいに改められている(新潮文庫)というのも一つの要因と思いますが・・・。まぁそれは置いておいて。
安心して、素直に、主人公である漁師の新治を応援しながら読みきることができる作品です。
ただひとつ難を言えば、当方、解説を読んでから本文に入っていくのが好きなのですが、解説にネタばらしが書かれていてガックリしました。したがって、これから読む方は本文から素直に読み始めたほうが良いと思います。
・「良いです」
自分はミシマのごてごての文体はちょっと苦手なんですが、この作品は結構好きです。健全一本の小説はミシマにはめずらしい(と思う)ですが、こんな一面もミシマが持っていたと思うともう一回他の作品も読み直してみようかなという気にさせられます。 内容は漁村での牧歌的な恋物語。ごく単純でありふれた筋ではありますよね。始まりがあって、山があって、一件落着と他作品とも大きな違いはありません。でも、やっぱりミシマ。単なる恋愛小説で終わらせずに、色々な部分で力強い描写を見せてくれます。岸壁に打ち寄せ砕ける波頭、荒れ狂う海、嵐のなでの邂逅……ストレートですがやっぱり感動させられてしまいます。面白い恋愛小説をと言われたら、金色夜叉かこれかなぁ。良いと思いますよ、お勧めです。 恋愛小説にはつきものの都合の良さが時々あってひょっとしたらミシマファンには読みにくいんじゃないかという気もしますが、良作ではあります。
・「2ちゃんねるやってないでこれを読め。」
予言の書でないかというくらい、述べられていることすべてが現代においてそのまま現実になっていて読んでいて驚愕した。現在各所であーだこーだーうじうじ言っている人はこのなかのいづれかの文章でなにか答えを見つけられると思う。それくらい現実的にしかも鋭く、しかも分かりやすい形で、私たちに語っている。
・「不道徳のススメ」
以前読んで非常に感心し、いろんな人に勧めた結果、本自体がどこかにいって戻ってこなかったので再購入・再読した本。三島由紀夫の純文学的小説ももちろん素晴らしいが、三島由紀夫の純文学作家としてではない人間味を覗き見ることのできる本書は、気軽に楽しく読めつつも目から鱗の素晴らしい言葉が並んでいる。
「教師を内心バカにすべし」 「大いにウソをつくべし」
などなど、一見不道徳なことを勧めているようなタイトルがずらりと並ぶが、そのように不道徳を勧めておきながら最後には上手に「道徳的な」結論にもっていく手腕はさすがというしかない。また、最初から道徳的な正しいことを勧める押しつけがましさとは無縁ときている。
また、さらりと書かれた文章の中にも人間の心をうまく解説したり、「うまいこというなぁ」と思わせる言葉がたくさん見つかる。 「公約を履行するなかれ」の中の言葉を紹介しよう。
「しかしわれわれが一等ごまかされやすいのは、一見現実的、一見具体的、一見実現可能にみえるような公約です。(中略) だからなんの選挙でも、一千万円の約束より三千円の約束のほうが安心だと思って投票すると、その三千円ももらえないことになって、バカを見るのである。」
「よく考えてみると、公約を履行しないのは政治家ばかりじゃない。社会へはじめて出る青年も、就職試験のときは、社会にむかって自分の人生の目的を述べ、一種の公約をかかげるわけだが、一年もたてば、自分のかかげた公約なんか忘れてしまう」
四十年以上も前に書かれた言葉だが、今の時代にも十分通用する鋭い視線が、軽快で軽い文章の中にたっぷり含まれている。
・「『悪が美しく見えることは、つまり我々が悪から離れていること』」
なんだかんだで人間は健全な常識を身につけて、フツウに生きて行かねばならない。
しかし、人間ありきたりの生き方に対する抵抗をどうしても感じる訳であり、その抵抗への願望、抵抗の為の理屈、抵抗の方法が三島流に表現されているのが本書である。
男の本質的な孤独性、卑屈な弱者への嫌悪など、三島の小説作品に見られる要素への言及もあり、読めば他の三島の小説への理解も深まること間違いなしである。
全てのヒネクレ者にオススメ。
・「不道徳なのに爽快感抜群!」
エッセイ風の小説でしたが、軽さ薄さはなく、とても深くて良い本でした。文章がとても美しく、柔らかく書かれていたので、読後感も爽やかでした。言葉にするのが難しい感情を、最適な言葉でズバッと指摘していらっしゃって、とても頭の良い方だなと感じました。
・「艶っぽい最上のエッセー」
全69章からなっているが、「死後に悪口を言うべし」の項では、まさに物事の本当のことを語る。死んだ人の悪口をいうな、と決まり文句のようにいうことにずっと違和感をいだき、また、生きている人の言葉が、己自身の言葉を筆頭にいかにもうそくさいな、とずっと思っていた私の心がこの言葉ですっと晴れた。問題はそれが万人に受け入れられる言葉や考えではなく、真実はどこにあるのか、を追い求めた言葉であるのか、だ。
・「あの三島由紀夫が!!」
某雑誌の中で大人が読む1冊として紹介されていた本である。大人としてのたしなみの一つとして手紙を書く手本として買ってみたが、全く別物。今までの彼の小説の中でもなかなか面白い部類に入る。学生ぐらいだとこの文章の面白さは分からないかもしれないが、多少人生の襞を重ねていくと、この本の面白さがわかってくる。
・「皮肉は美でなければならない」
面白い!!!面白いよ!!!
5人の個性的な登場人物の手紙のやりとりでのみストーリーが展開されていく。
携帯電話やパソコンのない時代に書かれた作品なので、時間間隔や手紙ならではの情緒や秘められた思いなどが面白く分析され描かれている。
確かに天才だ!
作中の登場人物の人間臭さは作者の研ぎ澄まされた感覚のなせる業だろう。こんな妬みや嫉妬があるのかと思い知らされた。世は常に嫉妬にあふれている。それを手紙という形で書いているため、争いの情景はない。そこがこの作品をライト感覚にしている由縁だろう。
2度読んでみたが、とらえる人物像に変化があった。
おそらく読んだ年齢と自らの置かれている環境によってその人物への共感(投影)も変化するだろう。例えば20歳の時と40歳の時に読むのではまるで違う印象を持つだろう。また時をおいて読んでみたい。
それ以上に本を置くことさえ忘れさせたのは、軽快かつ痛快なユーモアいっぱいの文章だろう。
皮肉とは美でなければならない。クスリと笑える言葉遊びがおもしろすぎた。
・「満里奈もおすすめ」
前に何かの雑誌で渡辺満里奈がこの本をすすめていたのを見て以来、ずっと気になっていました。渡辺満里奈があまり好きじゃない自分としては、「おもしろかった」なんて感想、そう簡単に言ってたまるかって気持ちもありますが、これがおもしろかったんです、ほんとうに。本を読むことの快楽がこの薄い一冊の中にたっぷり詰まっています。そんなに長い話ではないので、三島由紀夫を読まず嫌いしている人や、三島由紀夫に興味はあるのだけど『金閣寺』や『仮面の告白』の世界はちょっとね〜という人にもおすすめです。
・「めちゃくちゃ好き。」
こういう日本語もうまいのね。天才三島ここにありといった感じ。5人の登場人物の手紙のやり取りだけで物語を進め、手紙を読むだけで読者は彼らの人間関係や過去の出来事を把握することができる。また、彼らの書く手紙がおしゃれ。手紙の中では、三島ならではの洒落のきいた日本語が随所に使われている。皆さんのおっしゃるように直接的に実用に供する内容になっているとは思いませんが、おしゃれな手紙を書きたい方がいれば、彼らの手紙中のレトリックを参考にして、自分なりの工夫を入れつつ友人に手紙(メール)を書いてみるのもいいのでは?実際に彼らのような感じでメールや手紙を交換している人達がいたら素敵でしょうね。
・「うーん。氷ママ子か。」
始めに言っておきますが、手紙の実用書ではありません。しかし、文学としては、結構、楽しめます。職業も年齢も様々な5人の登場人物がお互いに手紙を出し合うという異色の小説ですが、三島由紀夫の皮肉がたっぷり効いていて、時間を忘れて読みました。登場人物の名前がね。氷ママ子、丸トラ一、空ミツ子、炎タケル、山トビ夫ですからね。時代がかってはいますが、実はみんな、現代にいますよ。それこそ、自分の周りにもうじゃうじゃね。『金閣寺』や『仮面の告白』とは一線を画しますが、おもしろいです。
・「深い」
死を意識することで生へのエネルギーを得る、という考え方は新鮮だった。三島由紀夫に対しては右翼のようなイメージを持っていたのだが、文章からは全くそんな印象は受けず、むしろ知的で繊細な感じがした。
・「後半の葉隠の現代語訳が重宝する」
本書の後半に葉隠の現代語訳が付いており、それが重宝する。
日々の暮らしの中で気持ちが弱くなっているときや迷いが生じたとき、この書を開くと奮起させられ、おのずと進むべき方向が見えてくる。
自室の本棚に常備しておきたい一冊である。
・「生の意義」
三島由紀夫自身が座右の書として何度も読み返したと説明があるが、処世訓として佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝が書いた武士の修養の書である。生との対比に死及び死の覚悟が語られている。主君に仕える当時の武士の生き様は生半可な姿勢では勤まらず、最後には切腹など自身を取り巻く環境は現代社会と大きく隔たりがあり、如何に厳しく真摯であったのかという思いがする。常日頃より死の存在を意識することにより、一瞬の生の意義をより一層意識し認識し生きなければならないということだと解釈する。
・「「葉隠」から生と死を考える」
「葉隠」は若い時から三島由紀夫の座右の書であった。「仮面の告白」や「憂国」などの代表作でもしばしば死について触れているように、最後は爆発的な「純粋行動」に走り、予定調和のように死を選択し散っていった。
常に生きる事と同じくらい、死を考えて生活する。死はいつ訪れるか分からない。その際、惑う事無く、死を選択できるようでなければいけない。有名な、「武士道といふは死ぬことと見付けたり」だ。
勘定者、すなわち頭でっかちを否定している。損得勘定でいけば生を選択するに決まっているからだ。だから思想の上に立った死などというのは、自分を誤魔化しているに過ぎない。「葉隠」は純粋行動を理想としている。行動のなかに結果として、「忠」も「孝」も存在する。それが理想の形だ。
また死に際しては、美しく外見を飾らなければいけない。勇敢であることよりも、勇敢に見えることを大切と考える。首を切られても美しくあるように、切腹の際には頬と唇に紅を引いた。
三島の死に対してはいろいろ異論があるだろう。しかし三島由紀夫はこの書の最後で述べている。「いかなる死でも犬死というものはない」と。
・「「死」から覚める「生」」
作者自身も述べているとおり、山本常朝の『葉隠』は作者の文学の母胎であり、作者の生き方に影響を与え、活力の源である。したがって、作者の作品論、作家論を考えるにあたり、本書を避けて通ることはできない。<br />数多く著されている作者の小説の中で、一貫して提示されているテーマの一つが「死」である。「死」を一つの終局と捉えることにより、今ある「生」が瑞々しく感じられるのだが、同時に「生」は儚い夢であるというニヒリズムも横たわってしまう。本書で述べられているそれが、「死」をテーマとする作者の小説に暗示されていると思われる。<br />完全な「死」の選択や「死」の強制を否定する作者は、むしろその両者の関係の中で追い詰められたときに直面する緊張状態と行動に価値を見出す。つまり、そこには「正しい死」や「犬死」というような価値判断はなく、「死の尊厳」があるのみである。そして、作者の生き方、書、とりわけ自殺について考えるとき、それらのエッセンスがこの「死の尊厳」に帰着すると思われるのである。<br />『葉隠』は「死」を見つめることで得られる生きた哲学を説いているが、行動哲学や恋愛哲学も説いている。身嗜みや心構えなどの処世術、プラトニックな恋の極致観はそれ自体興味深いが、本書はそれについて考えた作者の解説によってさらに深い味わいを与える。<br />「生」と「死」、そこから生ずる人間哲学について本書は示しているが、それは時代や空間を超えて語り継がれるべきものと思われる。
・「三島ワールドの背景を深く知りたい人のための本」
本書を読みながら、この小説はいったい何なんだろうと思いました。強引なストーリー展開と、不自然とも思える人物設定。読者が分かろうが分かるまいが知ったことではない、と言わんばかりの難解で気負った文章。
あくまで私の個人的な印象ですが、もしかしたらこの小説は、完成された「作品」というよりは、一種の"習作"と言った方がいいのかもしれないと感じました。つまり、若き日の三島由紀夫が、作家として更なる成長を遂げつつ、人間の幅を広げていく過程において、自身の葛藤や不安、欲望や野心を小説に託して爆発的に書き付けた"習作"ではないかということです。
とにかく読むのに時間のかかる本ですが、他のレビューワーさんも書かれているように、三島という人間・作家に興味がある人にとっては非常に貴重な資料だと思います。一方、そうでない人にとっては苦痛の一冊になる可能性が高い本だとも思いました。少なくとも、初めて三島由紀夫を読む方には本書はお勧めしません。三島嫌いになってしまう可能性が高いように思うからです。
逆説的に言うと、このように完成度が今ひとつと思われる作品であっても、読者に強烈なインパクトを与えてしまう三島は、やはり並外れて偉大な作家なんだなとあらためて思いました。
・「二つの対立」
女に振られ続けた俊輔が、美青年悠一を操って彼女たちに復讐するという構成だけでも面白いのだが、そこにゲイや美、芸術と生活の関係が織り交ぜられていて、量、質共に重層的だ。
操ること、あるいは演ずること。これらはフィクションを形作るものだ。俊輔が操り、悠一が演ずる様は、正に一つの作品を上演していると言って良い。ただし、俊輔はその作品の絶対性を追求したが、他方、悠一は作品として閉じてしまうことを拒んだ。脚本のみならず自ら舞台にも立った、演劇好きな作者は、監督、演者の間の、このような衝突を見ていたのかもしれない。
精神と肉体の完全な混合が本書の一つのテーマだと思われる。精神は生まれたときから肉体を持つという俊輔の持論は、俊輔が悠一に歩み寄ったように、一方的に精神を肉体に接近させた行為と矛盾する。ここに本書の破綻があるように思われる。
・「誰が悠一を演れるのか」
三島の禁色というと「ホモ」という文字が一人歩きする。これがこの小説の不幸なのだと思う。
・「三島にとっての理想の美青年像だが、女の目から見ると?」
主人公は三島が造り上げた、いわば彼にとって理想の美青年像なのだが、女の目から見て別に魅力的だと感じられないのが、なにか愉快だ。まだホモセクシャルというものが社会で広く認められていない時代、この作品が文壇に受け入れられたというのも意外なこと。きらびやかなまでの才能、鬼面ひとを驚かす行動、つねにジャーナリスティックな話題に事欠かなかった作者だが、やはり一世一代の幸運児なのだろう。
・「小説の中の小説−−20代でこの小説を書いたこの作家の天才」
−−彼は苦笑いをうかべながら、内容見本の表紙に刷られている彼自身の肖像写真をつくずく眺めた。それは醜いとしか言いようのない一人の老人の写真であった。尤も世間で精神美と呼ばれるようないかがわしい美点を見つけ出すことはさして困難ではなかったろう。(中略)近代の知的享楽に毒せられ、人間的興味を個性への興味を個性への興味に置きかえ、美の観念から普遍性を拭い去り、この強盗はだしの暴行によって倫理と美のこう合を絶ち切った天晴れな連中が、俊輔の風貌を美しいと言ったからとて、それは彼らの御勝手である。−−(本書8ページ) 小説の中の小説である。名声は有るが、女に愛される事が無かった老作家が、晩年の或る日、一人の美しい青年に出会ふ。その青年が男性同性愛者であり、女性を全く愛せない事を知った老作家は、その青年を操り、若き日の自分を苦しめた「女」と言ふ存在に復讐する為に、青年と彼を愛する女性達の破局を演出して行く。そして、そのファウストとメフィストフェレスを兼ねた様な老作家の復讐劇の中で、戦後間も無い時代の日本の様々な光景が描かれて行く、三島由紀夫20代の傑作である。 この小説の最初の部分−−この老作家が読者の前に登場する部分−−の回想と心理描写の素晴らしさは、言葉で表す事の出来無い物である。後半には、やや停滞する部分も有るが、20代でこの様な作品を書いたこの作家(三島由紀夫)は、矢張り、只者ではない。最初の30ページだけでも、先ず読んで欲しい。あっと言ふ間にこの小説に引き込まれる筈である。
(西岡昌紀・内科医)
・「これこそが小説だと思う」
完全に女目線で読み、妻の言動に感銘を受けました。小説なのに、顔なんて見えないはずなのに、彼女の瑞々しく美しい姿を容易に想像できる描写がまた、その感動を高めます。夫の死に様を見届けた後、死に装束のまま化粧をする場面。色彩の描写が美しく、私にまで冷え冷えとした空気が伝わってきます。なんともいえない、女性としてのしなやかさとしたたかさを感じます。彼女の強さ、愛情、生き様、私もあやかりたいです。
たしかに短編ですが、短編だと思わせないほどの重厚な余韻を残す本だと思います。
あまりにも感動したので、他の作品も読んでみたのですが…うーん、なんだか読みにくい。あの感動はどこにいってしまったのだろう…それでも、「憂国」だけに500円を払う価値は十分にあると思います。
・「魂を連れ去る明晰な神秘」
「花ざかりの森」悟りや感動に身も心もとりつかれた女たち あんなに深く 悟りや感動の本質に魅入るなんて この受動は偉大に捧ぐ忘我だ 魂の到達点 待望の啓示 稀な感受性への来世からの招待状だ 男を振り切り死に急ぐのは人間愛が尽きたからという意見もあるだろう夢しか愛せない女における愛と夢の決別という読み方も 来世的な神秘に魅入られてしまう女の情感と意思をとらえたとの読み方も可能だ 喜怒哀楽の奥にある 比喩の奥にある 自己顕示欲の奥にある 生々流転の奥にある偉大なる神秘の定義ここまでが第一の女 第二の女についてであって第三の女は彼女たちより世俗的だが夢の純粋培養に際し 他人の思惑がウィルス同然であるのは共通している三人とも憧れの完成に男の愛はいらなかったそして憧れの下に死ぬのは本望 悔いなく 安らかに死ねるとは そうした夢も憧れも決して空虚な昂揚感ではないのだ
・「三島のエキス」
『花ざかりの森・憂国―自選短編集』です。「花ざかりの森」「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」「遠乗会」「卵」「詩を書く少年」「海と夕焼」「新聞紙」「牡丹」「橋づくし」「女方」「百万円煎餅」「憂国」「月」の13編が収録されています。
これだけ本数がありますから、作風も多彩です。もちろんある程度玉石混淆感はあります。巻末に三島由紀夫自身による解説が載っていますので、著者が作品に対してどういうスタンスで向き合っているのかの一端を垣間見ることができると思います。いずれの作品も、三島ならではの水晶のように美しい文体を堪能できます。
表題作の一つである「憂国」は、二・二六事件外伝ともいうべきものです。美しい青年中尉が妻と共に自決するという内容です。割腹シーンのすさまじさと官能シーン、そして著者三島自身が後に自決を遂げた、ということもありますし、著者が解説にも書いてある通り「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたい求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」といったところでしょうか。
・「ほとばしってます」
主に若き日の三島の才能がほとばしってます。これでもか、これでもか、と言うほど、彼の才能・感受性が、ほとばしっています。
何かの本に、小林秀雄との対談で、小林「君は自分の才能にしか興味がなかっただろう」三島「はい」と言う場面がありました。
それを裏付けて余りある作品です。
百聞は一見(一読?)にしかず。ぜひ読んで、存分に息を飲んでください。
・「憂国」
表題の「憂国」を読んだ時、なんともいえぬ官能と生の充溢に、驚嘆した。三島由紀夫の中でも、大好きな作品の一つである。
全編に一種独特の緊張感が走り、読むと手に汗握り、血が滾る。最後のシーンの対照は、絶美である。
これを超える美しく、悲哀に満ち、官能的な小説に出会ったことはいまだにない。
・「深い感銘を受けた。」
すべては、「春の雪」の301頁の聡子の科白、
「(前略)、こんなに生きることの有難さを知った以上、それをいつまでも貪るつもりはございません。どんな夢にもおわりがあり、永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思うのは愚かではございませんか。私はあの『新しき女』などとはちがいます。‥‥‥でも、もし永遠があるとすれば、それは今だけなのでございますわ。‥‥‥本多さんもいつかそれがおわかりになるでしょう」
本多が60年かけても分からなかったことが、すでに、聡子は知っていたとしか思えない。。。
とすると、一番恐ろしいのは、その聡子にすべてを教え込んだ、蓼科ではないだろうか、卵を飲みこんだ時のあのおぞましさ!
というのは冗談ですが、個人的には、なぜか、西遊記を思い出した。誰にも負けない力を持つ孫悟空と積み上げた論理的思考で世界を知ったかに見えた本多、慈愛の心をもつ三蔵法師と深い愛を知り磨き上げられた感性をもつ聡子。唯識論というインドの経典を求めて、人生という旅に出る。仏の手のひらで踊っていたのは本多ではないのだろうか。驕れる人も久しからず、絹江の認識していた世界が、絹江の阿頼耶識によるように、世界や歴史と認識していたものは、本多の阿頼耶識に過ぎず、ただ因果が相互同時に起こる永遠たる今があるのみ。今やすべてを知っていた聡子の言葉で、最後に本多も世界の秘密の鍵の片鱗に触れたのではないか。
大乗仏教が築き上げたこの経典が、本当の世界であろうと、神聖なる詭弁であろうと、仏門に入らぬ限り、醜く老いて行く。もしくは神道が骨抜きにされ、日本自体が老いて醜くなったと言いたいのか、三島氏の、文学作品、天皇崇拝、美、精神、その天才、その武士道。これを、本物、またはその亜種にするために、自決しなければならなかったのではないか。一読して思いました。かぶり、とんでもない瑕疵あればすいません。長文失礼。
・「「救いようの無い終わり方」を極めたシリーズ最終巻」
物語の時代背景が現代に近づき、設定が私たちの日常世界に近づくことにより、小説の中における風景は我々の身近なものとなり、シリーズの中で最も親しみやすい小説となった・・かに見えたが、やはり最後まで読むと、作者が読者を挑発し続けている作品であることが解る。
特別な人物として設定され、私たちがそう受け止めてきた主人公の「特別性」が否定され、更に又その存在自体が・・・(読む前の人に結論を教えてはいけませんね)。結局読者は「人間の生に確固たる意味は無い」という引導を渡されてしまう、その引導自体が「衰」なのであろう。
しかし、この救いようのない結末に向けたダイナミックな物語の展開という小説の特色から、高橋和己の小説を想起したのは、私だけなのであろうか。
水平線に船が現れては消えていく・・、その船が私たちの人生そのものを表しているような、その自分の人生を遠い水平線に見ているような錯覚を覚えさせる、強い印象を与える心に残る小説である。
・「三島の理解者」
三島文学の終着点。天人五衰の最後はまさに『無』ですね。三島文学でいちばんすきです。やっぱり、死を心に決めた人間が書くだけあって、濃密というか、日常から隔絶された精錬された精神世界を垣間見させられている気がします。破綻しているとか、無理があるとかいう意見もあるみたいですけど、私から見ると、まさに完全に完成してるんじゃないでしょうか?それはそうと、三島の理解者が現れたらしいですね。 ↓三島由紀夫の遺言 観世音
・「美と醜の対比」
【豊饒の海】完結編です。 年を重ねる毎に浮き彫りにされていく、本多のリアルな醜さが悲しいです。 それに反して、清顕や勲やジン・ジャンの非現実的な美しさ。 人は死をもってしか、自らの美を完結することができないのでしょうか。
それにしても清顕の自意識は美しかったのに、 透の自意識は非常に浅ましい。 でも彼こそが人間そのものかもしれない。 これで本多も、生涯を通して追い続けた清顕の幻想と、 輪廻転生の輪から解放されたのかな。
三島も何かの幻想を追って生きていたのかな? 市ヶ谷駐屯地での自決によって解放されたのかな? それは豊饒の海の結末と同じく、闇の中。
・「完成された芸術」
私はかつて、写真を通し、三島由紀夫の誠に美しい死体を見たことがある。
首を失い床に倒れた体の、何とも言えない膝の折れぐあいや、カーペットに黒く染められた壮絶な血の広がりすら、いかにも絶妙で、この上なく美しかった。胴体が首もとの切り口をこちらにむけ、その左手前に、三島と森田学生の首が並べて置かれている写真もあれば、眠るが如く清廉な面立ちの三島の首のアップ写真も見た。それらは超然としていて、すさまじい光景を移していながらも、実に静かな印象を与える写真だったことを覚えている。
グロテスクなものの大の苦手な私が、三島の死体だけは、大きな感動をもって見ることが出来た。心底美しいと思った。彼の死は、芸術的な意味でも、彼の持っていた武人的な意味でも、間違いなく「成功」で、周りがどうのこうの論じることのできない境地にあり、あの美しすぎる死体の前には、彼自身の成した如何なる作品でさえも、実に小っぽけなものだと思った。
しかしながら、結果として、彼ほどその死をもって芸術を完成させた者は、近代・現代を通じていないし、彼の数多き名作の中でも、「春の雪」〜「天人五衰」の四部作が、その作品スケール、繊細さ、強さ、哲学性、日本精神、…あらゆる面で、群を抜いた最高傑作であることは論を待たず、実に、日本史上最高の文芸作品と評価されえる作品だと思う。殊にこの「天人五衰」は圧巻であり、彼の終曲にふさわしい、彼の持っていた一切の詩の横溢である。三島の死を思うと、「天人五衰」の終わりを思い出さずにはいられず、「天人五衰」を読み返せば、三島の死を思わずにはいられない、彼の死とは切っても切れない唯一の小説作品ではないだろうか。
彼の死によって、ゆるぎなく完成されたこの作品を、これからも世界中の人々に読まれ続けることを願わずにはいられない。
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